ホアキンのジョーカー、ヒースのジョーカー、ニコルソンのジョーカーの演技。
ヒース・レジャーのジョーカーは最高でした。
映画『ジョーカー』が期待外れだった!と言う人って要するに、ヒースのジョーカーが見たかったのに!って人多いみたいですね。わかります。ボクも少しそんな気分で『ジョーカー』を観に行きました。 でもホアキン・フェニックスのジョーカーを見てぶっ飛んだんです。ああ・・・これはこれで・・・最高だ(笑)。
「なぜ彼は笑いながら世界を混乱に陥れようとするのか?」。ジョーカー役にチャレンジする名優たちは、その謎を解き明かそうとしてそれぞれに様々な役作りや演技法を編み出してきました。
今回の「でびノート☆彡」は『ジョーカー(2019)』のホアキン・フェニックス、『ダークナイト(2008)』のヒース・レジャー、そして『バットマン(1989)』のジャック・ニコルソン・・・3者3様のジョーカーの演じ方を比較して、時代と共にジョーカーの演技がどう進化したかを見てみましょう。
ジャック・ニコルソンの演じるジョーカーは「怒れる道化」でした。
彼は怒りをぶつける相手に対しておどけて見せます。殺意のこもった笑顔を相手に見せて、相手を震え上がらせることがニコルソンのジョーカーの無上の喜びです。
なのでニコルソンのジョーカーの役作りのポイントは「怒り」と「笑い」。
ニコルソンはもともとメソード俳優として60年代にブレイクしましたが、80年代の彼は『イーストウィックの魔女たち(1987)』あたりから「人間の内面の衝動を演じるメソード演技」から、当時大流行していた「エキセントリックなキャラを演じるキャラクター演技」に演技法を変えつつあり、このティム・バートン版の『バットマン』では「怒り」と「笑い」という内面の衝動を役づくりの根幹に据えつつも、「怒れる道化」をスタイリッシュに「演じて見せる」演技法でジョーカーを演じてます。
メソード演技の皮を被ったキャラクター演技というか、キャラクター演技の皮を被ったメソード演技というか(笑)。でもよく考えてみるとジャック・ニコルソンって『イージー・ライダー』『カッコーの巣の上で』『シャイニング』あたりの時期でも、相手に向かって下品に「おどけて見せる」みたいな演技を好んでやってましたよね。おどけるニコルソンがふと素に戻ってシリアスな内面を見せる瞬間が妙にセクシーで人気でした。
それで言うとこのジョーカーでの彼の演技は、素に戻った瞬間が素に戻ってないというか、そこもまた「演じて見せて」しまっている感があります。『イーストウィック~』でもそうでした。それがメソード俳優ニコルソン流の80年代風のキャラ演技だったのでしょう。
ニコルソンのジョーカーは相手と対等にコミュニケーションしません。ひたすら自分のユーモアを相手に押し付けて笑いまくる怪人ですから。名演です。
そんなジャック・ニコルソンがヒース・レジャーに「ジョーカーには入り込むな。危険だから」と助言していたという説がありますが、まさに入り込みまくって不眠症になりながら演じられたのが『ダークナイト』のヒース・レジャーのジョーカーです。
ヒースのジョーカーは執拗にコミュニケーションしまくります。「誘惑する悪魔」だからです。
イブに林檎を食べるよう誘惑したヘビのように、ヒースのジョーカーはありとあらゆる人間を悪への衝動へと誘惑しまくります。
ヒースのジョーカーも「怒り」が演技の原動力になっているんですが、ニコルソンのジョーカーの「怒り」とは構造が根本から違っています。
ニコルソンのジョーカーの「怒り」は、60年代メソード俳優らしくジョーカー本人の内面から生まれた「世界に対する怒り」で、彼の犠牲者はとばっちり的にそれをぶつけられる構造なのですがw、ヒースのジョーカーのは違います。
ヒースのジョーカーの怒りは相手とのコミュニケーションの中から生まれた「人間のきれいごとに対する怒り」です。ヒースのジョーカーは相手に咬みついて徹底的に観察し、誘惑し、相手のきれいごとや欺瞞をあぶり出そうとします。
誘惑者であるヒースのジョーカーはまず相手の目を自分に釘付けにして甘い言葉、つまり嘘をささやきまくります。「正直になれよ。やっちゃえよ」と誘惑する姿がとんでもなくセクシーです。誘惑して、挑発して、相手がその結果どんな反応をするのかをヒースのジョーカーはずーっと「見て」います。
「人間の本性が善なのか悪なのかを見極めたい」という役作りでヒース・レジャーは演じていて、混乱の中で人間の醜い本性が出てきた時、ヒースのジョーカーは無上の喜びを感じるのです。
ヒース・レジャーはメソード俳優だと言われ『ブロークバック・マウンテン(2005)』などでは確かにそんな感じなのですが、『ダークナイト』での彼の演技は「内面の衝動」を演じることよりも「コミュニケーション」に重点が置かれています。おそらくジョーカーを作り込む中で彼はコミュニケーションの演技法である「見る演技」に開眼したんだと思うしかないんですが、この「見る演技」はマイズナー・システムなどが目指した境地でもあります。
ヒースのジョーカーは先の行動が予想できません。彼の行動は彼の「内面の衝動」が決めるのではなく、彼が誘惑した相手がどう出るかによって180度変わるので、会話シーンの着地点を観客が予想することは難しいのです。だってジョーカー本人にもわかってないのですから。彼とマフィア連中との会話も、バットマンとの会話も、ゴードンとの会話も、ハービー・デントとの会話も、『ダークナイト』に幾つもある長い長い会話シーンのどれもこれもがこんなにもスリリングで手に汗握るのは、このヒース・レジャーの「先が読めない」演技法に依るところなのです。
ヒース・レジャーのジョーカーは、巧妙にヒトを誘惑し、その相手が葛藤するさまを見て笑います。「ほらほら、お前の正体が見えてきたぞ(笑)」と。名演ですね。
さあ2016年の『スーサイド・スクワッド』のジャレッド・レトのジョーカーはサラッと触れるにとどめて(笑)・・・いや、嫌いな俳優ではないのですが、なんだか彼ずっと歌舞いてましたよねw。ステージ上のロックスター風のエキセントリック演技、舞台裏無しの。
これ演技法としては90年代に流行ったタイプのもので、2016年にコレをやるんだったらもっと多重構造的に演じて舞台裏も見せる必要がありましたねー。以上w。
そしてついに『ジョーカー』のホアキン・フェニックスのジョーカーの登場です。
ジャック・ニコルソンのジョーカーが「見せる演技」、 ヒース・レジャーのジョーカーが「演じて見せて」相手の反応を「見る演技」で演じられていたのに対して、ホアキンのジョーカーはさらに純度の高い「見る演技」で演じられてました。
いや~まさかジョーカーというキャラクターを「見る演技」のみで演じることが出来るとは。度肝を抜かれました。(以下、ネタバレ注意w!)
だってジョーカーなのにいい人なんだもの(笑)。ホアキン演じるアーサー(=ジョーカー)は相手を「見て」いるし理解したいとも思っているし、彼なりの愛情も示しているのに、彼は誰とも仲良くなることが出来なくて居場所をどんどん失ってゆく・・・それは彼が「10歳の少年の瞳で世界を見ている」からです。大人の事情がまったく理解できない。
10歳の少年には大人の女性にどうやってアプローチしたらいいのかが分からないし、彼には自分に対して怒ってくる大人がなぜ怒っているのかも理解できないんです。
そしてジョークも理解できない。スタンドアップ・コメディアンのショーを観に行った時もアーサーだけ周囲の観客と笑いのポイントがズレてましたよね。下ネタや差別ネタのがアーサーには理解できないんです。一生懸命作り笑いをしてましたが、もっと10歳の子供でも分かるようなネタじゃないと・・・たしか「わたしは医者だが…」とかそんなところで爆笑してましたよね(笑)。うん、確かに彼は医者じゃない(笑)。
そんな感じで、ヒースのジョーカーが「見る」ことによって世界を詳細に把握していったのに対して、ホアキンのジョーカーは「見て」も「見て」もさらに世界のことがわからなくなってゆく。そして妄想の世界を「見」はじめるんです。。。
この映画『ジョーカー』には4つの幸せな妄想があります。
1つめは前半、アーサーが大好きなマレー(ロバート・デ・ニーロ)のTVショーを客席で見ていて、マレーと2人でステージに上がって彼に称賛される幸せなシーン・・・これは言うまでもなく妄想。アーサーは母親と2人でテレビでマレーのショーを見ています。
2つめはアーサーが同じアパートのシングルマザーの黒人女性と恋仲になる幸せな展開・・・これも後半になって妄想であったことが明らかになります。ショッキングなシーンでした。
3つめはアーサーがマレーのTVショーにコメディアン「ジョーカー」として出演することになり、観客から割れんばかりの拍手を浴びる幸せなシーン・・・この時アーサーは椅子に座ってしばらくフリーズします。感動してるんです。ようやく世界に受け入れられた!と。ステージ上から客席を見つめて「想像してたのと同じだ…」とつぶやきます。それはつまり1つめの妄想でマレーとステージから見た光景がついに現実で実現したってコトです。
アーサーはもう本当の自分として生きてゆくことを決心します。もう屈辱的な作り笑いで世界に媚びるのを止めて(この前のシーンで彼は笑うピエロの仮面をゴミ箱に投げ捨てますよね)、コメディアン「ジョーカー」として新しい人生を生きてゆこうと・・・でもこの幸せで前向きな決心は彼がマレーを撃ち殺すことで終わってしまいます。
なぜアーサーはマレーを撃ち殺してしまったのか?それはマレーが知るはずのないアーサーだけが知っている事件の件でアーサーのことを責めたからです。アーサーはマレーを「見て」言います「アイ・ノウ。アイ・ノウ。(わかったよ。わかってるよ。)」・・・ああ、つまりこの幸せなTVショー出演も彼の妄想だったのです。
アーサーはマレーをあっさり撃ち殺します。だってこのマレーは自分を口汚くののしる妄想のマレーだから。そしてアーサーは逃げ惑う観客たちを「見て」微笑みます・・・これも妄想か。そして立ち上がってTVカメラに向かって言うのです。
「ザッツ・ライフ!(これが人生だ!)」
しかし夢と違って妄想は醒めません・・・狂った自分の頭から逃げ出すわけにはいかないんです。妄想はそのまま進行し続けます。妄想だろうが現実だろうがこれが彼の体験する人生「ザッツ・ライフ!」なのです。
逮捕されたアーサーが走るパトカーの窓から外を「見る」と、街は彼の発砲事件をきっかけで大きな暴動が起きています。(このシーンは『ダークナイト』のオマージュですね)そしてパトカーは交通事故を起こし、アーサーは死んでしまいます。で、ここから4つめの幸せな妄想が始まります。
パトカーの上に寝かされた死んだアーサーはまるでキリストのように生き返ります。悪のカリスマ「ジョーカー」として。自分のダンスに熱狂する暴動の群衆たち・・・ああ、ついに自分の居場所を手に入れた。 これが4つめの幸せな妄想です。
この映画に関する論争で、どこからどこまでが妄想で、どこが現実なのか?というのがあります。でもこの映画はそのことをたいして問題にしていないですよ。ホアキン・フェニックス演じるアーサーが「見て」いる世界が彼の人生なのです。それが妄想であろうとも現実であろうとも。彼にはそれしか無いのだから。
それがホアキン・フェニックスのジョーカーの「見る演技」の全貌です。超名演でした。
いや~これジョーカーの演技としては究極・・・でも数年後にはまたコレを超える別のジョーカーが活躍する映画が現われるんですかね(笑)だったら最高ですね!えええ?まだこの手があったのかーっ!!!みたいなね(笑)
小林でび <でびノート☆彡>
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