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もしこの世にいなかったら


「もし自分が生まれてなくて細胞もなくてこの世もなくて今いる現実もなくて宇宙に浮遊していたら」

 小学2.3年の頃、そんなことを授業中に考えて、ここにいる事実が、嘘になることが怖すぎて考えては途中でやめた。生まれずに人間にならずに細胞の塊でしかない自分は何者でもなく感情もなく静かに宇宙に浮遊していることが神の域すぎて信じられなかった。今の自分は地球でしか通用しない。でも、みんなは「この世が全て自分以外の自分はありえない」という風に生きている。地球人同士、存在を認識し合って「あたりまえ」を「あたりまえ」に共通認識としてこの世をつくっている。幻想の中で幻想をつくり続けるのが人生。

 地球は宇宙が設定した巨大な実験施設だとしたら宇宙に生かされている自分は全てを忘れて地球人として降りてきて、地球のキャラクターとしてピエロに幻想を生き続けている。今の自分は幻想の自分だと考えると己は泡となって消えるおもちゃなのだろうか。人は顔を見て誰かを認識し、鏡を見て自分を確かめる。小さい頃から、自分の顔と心の中の自分はあまりにも違いすぎると感じていた。自分の体が自分のものだと感じていなかったし、親と全く別の世界にいると感じた。

 小さい頃からこの世は幻想だと分かっていた。他人の目になることはできないし、脳を見ることもできない。目の前の人がどんな景色を見ているかなんてその星に降りたってみないと分からない。降りたつことだって難しい。誰かを見ている時、自分の目に映っているわけで、映ったものになれるわけではないから。この世は、自分の脳内でしかない。この最大の疑問は僕をいつまでも子供にした。僕の意識は物質を動かし誰かとつながり僕はビッグバンに関わっていたのかもしれない。

人生のエンディングでチャーリーとチョコレート工場の曲が流れておもちゃの機械が「ゲロゲロ」と言って、人生劇の幕が閉じる。ドッキリのプラカードを持ったおじさんが三途の川に現れる。

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