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いまさら切れない縁を除けば、縁の多くは多少ご都合主義

「こういうヤツとは縁を切れ」
「こういう兆候があらわれたヤツとはかかわるな」
みたいなサムネイルをYouTubeのタイムラインでよく見かけます。
どの程度人気があるコンテンツなのかはよくわかりませんが
ここでわかることは
人は、縁を結んだり切ったりを、ご都合主義的基準によって決めてる場合が多いということです。

これが、江戸時代ですと、どこかの農村に生まれれば、縁はそんなに自由自在ではなかったでしょう。

つまり、自由主義社会というのは、かなり、個人のご都合主義を促しがちだということです。

10年以上続いてる縁とか、いまさら切るのが難しい縁を除けば
人は、縁に関して、ご都合主義選択をする可能性が高いということです。

ビジョンやプラン、やりたいこと等が明確な場合は、これは悪いこととも言えないでしょう。
目的に合致する人を周囲に集め、役に立たない人を除外します。
これは、会社をはじめ、一般の職場がやってることです。

個人でも、たとえば、「性欲」というご都合がとびぬけてる場合は
嬢やホストでも構わないでしょう。

もし、重い障害や病気を背負ってるとかでなければ
社会関係は、一般論ですが
誰かの都合を満たしてる必要があります。

しかし、誰かの都合を満たすために、あまりに自己犠牲が大きければ
自分が、こころか身体を病んでしまうでしょう。
または、希死念慮だとか、犯罪があたまをよぎるかもしれません。

でも、一般的には、誰かの都合を満たす能力を育むには、一般の職場とかかわるのが最短コースなのかもしれません(特別な才能や、どうしてもやりたいことがない限り)
もちろん、裏目にでれば、ただ自分が壊れますが……

経済上位国ほど、個人が、ご都合主義的選択(ばかり)をする可能性が高まります。
ご都合主義それ自体は、必ずしも悪ではないかもしれませんが
あまりに甚だしいと、自分の首を絞める可能性もあります。

あっ、いや、こんな物言いをすれば
「おまえは、個人責任論者か?」という軽蔑のまなざしを向けられるのは必至でしょう。

ただ、個人主義の自由主義社会となりますと
関係性の多くは、相互にご都合を満たしてるときに成立しやすいと言えるでしょう。

じゃあ、結局イケメン・美人などのルッキズムの勝利?

いや、スマホやタブレットなどの2次元の平面で、容姿を純粋鑑賞するのが、異性の価値のすべてであるというなら、そうだともいえるでしょう。

20代だと、男女とも、ルッキズム的魅了は譲れないかもしれません。

いや、はなしがそれましたが
僕は、派遣バイトで、工場に行くことが多いですが
突然、姿を消す人も多いです。
その職場に働きにくることが、その人の都合を満たさなくなったのでしょう。

僕の、noteの読者も、もっとも読まれてた時期にくらべれば、かなりの人が離れてしまったかもしれませんが
誰かの都合を満たしてる限りにおいてしかリピートしてくれるお客さんは望みにくいでしょう。

じゃあ、やっぱり、社会は容姿・能力ともに秀でた強者が有利なの?

いや、たとえば、エンジニアなどの能力があれば、お金は、肉体労働とかをやってる人よりは集まるでしょうし
エンジニアの能力があれば、一応強者なのかもしれませんが
人が集まるかどうかは、また別問題でしょう。

ただ、いずれにせよ
いまさら切れない縁を除けば、縁の多くは
多少ご都合主義的に結ばれたり、切ったり、あるいは疎遠になったりしてる部分はあるようです。

そういうのは、情を欠いててさもしいよ、という意見もあるでしょう。

僕も、アラフィフで独身ですが
候補者(?)の都合をまったく疎かにしてると、候補者は離れていくもんでしょう。

いずれにせよ
五体満足である限りは
誰かのニーズを満たしえてる程度に応じてしか縁はできないのかなとも思います。

経済大国になるほど、ご都合主義はよくも悪しくも拡大するのかもしれません。
無縁社会といいますが
経済大国になって、ご都合主義もその分高まり、弱者(?)を助ける扶助システム的な関係が廃れたのかもしれません。

もし、五体満足であれば、5日に1っ遍は
「自分ははたして誰の都合を満たしているだろう?」と自問するのもよいかもしれません。

自己犠牲はなはだしい個人であれば、自分の都合を満たすことも重要でしょうけど


(あとがき)
一般には経験値が高く、スキルも高いほうが、他者のニーズをより満たしやすくなるため、そのいずれも高くない若い人の多くは、社会で自己価値を実感することが少ないでしょう。
僕も、一般の職場では、ハンドフォークというヤツで荷物を運ぶくらいでしか、会社(社会)のニーズを満たしえないので(今日現在)いろいろ他の可能性も模索してます
縁なんて、どれが切れてて切れてなくてというのは、絶交とか絶縁でもしない限り、そんなにはハッキリしてないのかもしれません。
というのは、人々の多くが(自分も含めて)ご都合主義的選択を繰り返してると仮定すれば、相手や自分の事情が明日どうなるかなんてわからないからです。
選ぶ権利のある強者であれば
「そんな計算高いヤツは近寄らせたくないな」とシャットアウトすることもできるでしょうが
自分は「こういうヤツとはかかわらない」と断固した基準をかかげられるほど強者では今日現在のところないようです。
もっとも、実際は、ストレスが多いので
ストレスな個人はごめんだぜ!と大見えを切りたい気持ちもあるのですが
というより、独身で、投稿アカウントや執筆を収入につなげたい気持ちがゼロではないなら、もう少し他者の都合を考えたほうがいいのかななんて思うこともある最近です。

(あとがき2)
起縁というのは、目に見えないなにかでもあると思うので
それを深く考えれば、合理的には説明できず、宗教的な世界のはなしになるのかもしれません。
自分なりに「縁」というものについて考えてみました


(あとがき3)
少しでも、半リスペクトを見せた人を絶対に(オレは・わたしは)受け容れないっていう王様体質を、投稿アカウントって助長しやすい部分もあって、僕も、年齢が上がるにつれて、そういう王様体質をビミョーに自分の内側に感じることもあります(狭量になっていうというか)
むかし、「おしん」っていうNHKの超絶人気朝ドラがあったんですが
「おしん」は身分が低かったので、まわりの人の酷遇に耐え、まわりの人の信頼を勝ち取っていきます
「リスペクトを見せねぇヤツをオレは絶対許さねぇ」みたいな王様体質の対極だったと思います。
今日だと、「おしん」みたいなストーリーは有害と判断されやすく、王様思想のほうが、SNSで共感されやすいでしょう。
どっちがいいんでしょうね。

ここまで御一読ありがとうございました。

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