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違和感は大切にすべきか?

ある種の身体の違和にはすぐに対処する必要があります。
救急車を呼んだり、すぐに手を打たなければ大変なことになることもあります。

ある種の違和は、性急な修正や処置の対象であり、遅れると致命的な場合もあります。

74まで生きたわたしの父は、50で、それまでやってたイラストの仕事を諦めざるを得ない状況になり、運送会社というまったく毛色の違う仕事に就かざるを得なくなりました。

滅多に弱音を吐かない父が「このままだと父さん心臓死しちゃいそうだよ」と漏らしました。
当時、ひきこもりの初期だった自分は、そのセリフを右から左へなんとなく流してしまいました。
実際、自覚症状があったのだとおもわれます。
机に座ってイラストを描いていた父が、50歳を迎えて、家族のためとはいえ、運送会社の激務の中に突然放り込まれたのですから。

結果論ですが、父は74まで生きました。
結果論でしかないのですが、心臓死はしなかったのです。

職業選択の自由を始め、人の権利としての「自由」は(部分的にせよ)拡大しているようです。
離婚歴などが、眉をひそめて眺められることは少なくなったといえるでしょう。

しかし、「自由」(権利としての)の拡大は、人を脆弱にしてしまった部分もあるようです。
「違和や不安を感じたらすぐ逃げましょう、捨てましょう」が合言葉になってすらいるのが当世風なのでしょうか。

逃げた方がいいのか、そうでないのかは、結果論になってしまうことも多く、ケースバイケースなのかもしれません。

すぐにでも逃げないと確実に致死の場合もなくはないでしょうから、一般論として考えるのは不毛なことかもしれません。

ただ、個人的には、「すこしでも違和や不安を感じたら、すぐにそれと手を切る」というやり方だと、
人生は終わることのなき流浪、になってしまうのではないでしょうか?とも思います。

僕は、どうやら現実論というより哲学論のはなしをしてるようです。
退屈でしたらログアウトしてくださっても構いません。

でも、人生って、そういうもんじゃねぇ?

そうかもしれません。
人口の5割は、たとえばユニクロの柳井社長のような、しっかりしたお城のようなものを築くこともなく、流浪に近い形でその生涯を終えるのかもしれません。

実際あらゆるものの賞味期限は短くなっているようです。

地球の人口は、そう遠くない将来に80億になるとかで、そうなると、もうごまかしであれ何であれ、流浪で逃げ切るしか手がないのかもしれません。

いや、流浪でない踏ん張りこそがむしろごまかしの人生だというのが当世風なのでしょう。

もちろん、そんなことを含めて個人の「自由」なので、自分の世界観によりフィットするほうを選べばいいのです。

それに対して、誰かからとやかく言われる筋合いはないのです。


よければ、もう少しつき合ってください。

僕が、この手のはなしで思い出すのは
「違和」のある境遇を手放せなかったはなしです。
というより、そこから解放されなかったはなしです。
ふたつあります。

よろしければ、もう少しつきあって下さい。

ひとつは、名張ぶどう酒事件(1961年)で死刑が確定し、無罪を訴え再審請求していたはなしです。
家族とともに再審の請求をしていましたが、2015年、89歳で獄中病死してしまいました。
残された家族は再審請求を続行していましたが、この前の3月棄却されました。
残された家族がポツリ言った「人生何もいいことがなかった」という発言に僕は衝撃を受けました。
被告もその家族も、そんな人生にはもちろん「違和」を感じたでしょう。
でも、(今日現在まで)どうにもならなかったのです。

もうひとつは、井伏鱒二という文豪の『山椒魚』という作品に出てくる山椒魚です。
自らが犯したある失策のおかげで岩屋の外に出られなくなってしまったはなしです。
この山椒魚も、もちろん境遇に「違和」を感じて、外の世界に出たかったのにそれが叶わないのです。

一般の人はここまで何かに拘束されてしまうことは少なく
そういう意味では(FREEDOM)です。
もちろん、若くて足腰のフットワークも軽いうちは、「違和」を感じたら、自在にチェンジするのがよいのでしょう。
でも、これは自分のことも含めてなのですが、その(FREEDOM)がビミョーに災いして、少しの「違和」も耐えられない過敏症みたくなって、逃走に近い流浪をしている部分も否めない。

僕は、80年代に流行った「スキゾか?パラノか?」(分裂症的逃走か?偏執狂的執着か?)の議論を蒸し返してるだけなのかもしれません。

僕個人のはなしをさせてもらえば、僕は小学校の低学年てイジメの渦中の人になってしまい、学校という境遇に非常な「違和」を感じていましたが、今日みたいに学校に行かず、YouTubeで勉強して、10才にもならないうちにスターみたくなるという選択はなかったので、僕は多少の「違和」は大抵諦めるという処世を身につけるに至りました(諦めてどうにかなる程度のイジメだったのかもしれません)

もちろん、放っておくと手遅れになる「違和」もあるので、それは性急にしかるべき決断をくだすべきでしょう。

僕は、この文で「我慢」を勧めてるわけでは特にありません。

ただ、「違和ゼロ」の空間なんて、SNSコミュニティーでもリアルの職場でも、住んでる地域や国でもなんでもひとつでもあるのでしょうか?

電車の中で聴くスマホの音楽が今の気分にピッタリフィットしてるみたいなことはありますし
喫茶店のコーヒーが、自販機の缶コーヒーよりは自分の舌にフィットするくらいのことはあります。

でもさ、あとのことは「違和だらけ」じゃね?

もちろん、人間だから、五体満足であるかぎり、全ての「違和」をそのまま放置なんてできっこないから、休息が終れば、また何か生産的なことをしてみたり、どっかを改善してたりするんだろうけど。

ひょっとすると劣悪な境遇にいると、流浪的な逃走を果てしなく繰り返すしか手がないのかもしれませんね。

でも、感じる「違和」がすべて解決することなんかそもそも人生でないんだろうし、あんまり一気にすべての「違和」を一気に解決しようとすると心臓やその他のところに負担がかかるでしょう。

あっ、とりとめのないはなしになってきましたね。

すぐに手を打った方がいい「違和」もあるし
当面諦めて受け入れたほうが利口な「違和」もあるような気がするし

ただ、40をすぎて、それまでのフットワークに翳りがでてくれば、「違和」を感じたら、じゃあだからって早急に環境なりなんなりを変えたり捨てたりなんてのも難しい部分はでてくくるかもしれませんね。

ああ、じゃあ、この辺で結論(暫定)を

「違和感は大切にすべきか?」

違和感なんて終局的になくなりゃしねぇと思いますよ
でも、なにもしないでいられるほど人間は強くなかったりする。

昔、音楽雑誌かなんかで読んだんだけど
元ビートルズのポールマッカートニーがスタジオ作業で、放っておくと1曲をどこまでもいじくろうとするんだっていうはなしで
そうすると、まわりの人からすれば、レコードはなかなかできあがらないし、スタジオ料金は嵩むはで大変だからやめさせようとするんだって
「違和」をどうにかしようとすることの悪循環の好例ですね。
もっともミュージシャン(芸術家)は、そのくらい「違和」を排除することに潔癖でなければ務まらないのかもしれないけど。

「違和」なんて結局なくなりゃしない
でも、それを静的に受け入れるか
「行動」による変化でどうにかしようとするか
という個人の性格とかに基づく違いがあるだけなのかも


今日はこれで終わりにします。

御一読ありがとうございました。


(あとがき)
この文はごくフツーの個人を対象にしており
ビジネス界の主要人物、たとえば、メタ社の社長とかトヨタの社長とかになりますと、生じている「違和」には「秒」で対処・対応・変革しなければならないのかもしれません。
重責を担う人の意思決定に関するはなしではなく
社会を生きる個人の人生哲学みたいなはなしなので、そこをお断りしておきます。
また、肉体の違和(歯が痛いとか膝が痛いとか)はなるべく早く手が打たれた方が軽症で済むことが多いでしょう。
環境因の違和は、時間とともに慣れてくる場合と、時間が経つほど大きくなる場合とふたつあるでしょう。
後者だったら修正(転職とか)がかけられるべきでしょう。

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