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宇宙は常に正しいのか?

ある状態や状況に対して、納得がいかなかったりすることは
人間だれしも1度は経験あるだろうと思う。

こういうとき、誰かを(なにかを)責めることはあると思うけど
自分が何か間違っていたのではと自省する場合も多いだろう。

間違いには「罰」が与えられ
正しきものは栄えるものなのか?
また、宇宙は常に正しく
まちがった人間は、破滅、そこまでいかなくとも零落していくものなのか?
今日は、そんなことについて考えたい


高校生のころだったと思うけど
歴史の教科書で「フスの火刑」という、おそろしくも、また、今日見ると幾分ユーモラス(?)でもあるようなある記録的な絵が自分の印象に残った。
キリスト教のプロテスタントの先駆者で、カトリック教徒の怒りを買い
俗権力に火刑に処せられたというはなしだ(このあたりは、Wiki参照)


平和な時代(80年代)に歴史を学んでた自分は、昔の今日から見れば、幾分(?)野蛮な歴史におそろしさを感じると同時に、そんなことは起こりえない前提で、当時高校生でしかなかった自分には、奇妙にも幾分ユーモラスに感じられた(実際、その場にいれば、震撼というか震え上がったと思うけど)
でも、火刑みたいなことに近いことは、割と最近まで、毒ガス室だの、ホロコーストだとか、731部隊とか、〇京大虐殺とか、神風出撃とかいろいろあったし、いまだって、戦闘状態にある国と国はあるのだが
それはともかく、この高校のころ見た「火刑」の図を見るに至って、宇宙というのは、それ自体正しいも間違ってるもなく
ただ、地球にいる人間や、その他の生命体の、作用と反作用があるだけではないかと思えてくる。

いや、もちろん、人間のある種の審美性にかなった正しさというのは、あると思うけど
社会が常になんらかの歪みを体現しているなら
そこに住む人間(たち)が、常に審美性を体現してることは、どちらかといえばむしろ少ないだろう。
電車の中ではスマホを見てる人が多いけど
いけないことではなかったとしても
審美性を体現してるわけでも特にないだろう。

究極的に正しさというジャッジが宇宙にないということは
人間(たち)が、そこで何をやってもよいのだということにはでも多分ならないだろう。
たとえば、水銀を海洋に垂れ流す行為は、水俣病というかたちで顕在化し
それには歯止めがかけられた。

いや、はなしが深刻になってきたけど
人間界では、そこで、人は作用と反作用にあけくれているだけなのかもしれない

いじめという状況に対する、反作用は、いろいろある
「声を上げる」「訴える」「強者にいいつける」という反作用もあるし
「だまっている」「だれにもいわない」「ときが解決するのを待つ」という反作用もあるし
目には目をで「やりかえす」、最悪「殺してしまう」という反作用(絶対的正当防衛とかで)も絶対ないとは言えない
いじめられたことに対する鬱憤を、「さらによわいものへぶつける」という反作用もあると思う。

こうなると
あるシチュエーションで、絶対に正しい、唯一の正解(学校のテストみたいな)があるというより、その人の資質や経験にみあった反作用が起こっているだけではないか?
そしてまた、それに対し状況にみあった反作用がある

今日ほど、ある正しさが容易に相対化される時代もまたないのかもしれない
それは、気の遠くなるはなしかもしれない
受験のころ(自分にとっては80年代だったが)は充実していた
というのは、受験は、比較的「正しさ」が限定されて、安定していた
たとえば、『源氏物語』の作者は?と聞かれれば
「紫式部」と答えればよく
それが「紫式部」ではない宇宙も存在しうるのだろうけど
とりあえず、「紫式部」でない現実(?)はシャットアウトされてるからだ
こんなシンプルな世界に生きていた80年代は、あらゆる意味で、今日よりラクだった。

メジャーとマイナーがくっきり分かれてた昔は、いまより人づきあいが容易だった。
昨日の巨人戦の結果をおさえておけば、とりあえず、会社で人とはなしのつじつまがあった。
今日では、人の誘いを断るのがむしろ美徳と奨励されてるようだけど
メジャーというものが既になく、これをおさえとけば、他者とはなしのつじつまが合うみたいな話題に乏しい時代を生きてる僕等は、人づきあいの難易度は多分かなり上がっているのだ。

いや、はなしがそれたけど

「フスの火刑」という高校のころ歴史の教科書で見た、あの絵図を思い出すにつれ
宇宙は、ある正しさを常に体現しているというより
そこに生きる人間(や生物)の作用と反作用があるだけなのではないかという気がしてくるというはなしだ。
こう考えることは、なにやら気の遠くなるはなしでもある
正しさが瞬時に相対化される世界では、人は、生存の戦略が定まりにくい
僕は、多分、7.8年前、フリーランスか組織人かの2択で考えてた
しかし、ある正しさ(と思われたもの)がこんなに容易に相対化される時代には、もはや、どちらが優位もクソもないのではという気がしてくる

正しさ(?)は、どちらかといえば、物理則に関する次元のことだろう
たとえば、地球温暖化を無制限に許容してれば、多分、かなりの確率で起こることはあるかもしれない

正しさやメジャーが、ある幻想でしかなかったという世界では
世界と人とどうかかわっていいのか、または、何をやって誰とかかわればいいのか途方に暮れる人を当面増やしそうだ。
こういった状態に、行政が決定解を与えられるだろうとはあまり思えない

宇宙に正しさ(correctやjusticeという意味で)があるというより
人間界的な現実は、多分、作用とそれに対する反作用が起こってるだけなのか?
反作用には、さきほど見たいじめのはなしみたく
これが絶対的正解というような唯一の反作用はない(殺しという反作用を選択すれば、それなりの請求書がくることは多分避けられないが)

そんな感じが、現代的風景なのか

そんな風に、今日は考えました。


(あとがき)
フスの火刑をユーモラスに感じる部分もあったというのは、僕が高校生のころの日本は、ごくたまに、通り魔殺人や強盗などが起こるものの
火刑などは想像もできない、平和な繁栄を享受していて、高校生でしかなかった自分には想像すらしにくいことでした。
「ありえねぇ─」すぎて、不謹慎にも、ビミョーにユーモラスだったということです。
これを書いて、フスと、その火刑について、改めてWikiをざっと読んだのですが、過酷極まりない当時のヨーロッパの情況を改めて知ると、複雑な感情に襲われます。

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