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小説『虹の振り子』04

第1話(01)は、こちらから、どうぞ。
前話(03)は、こちらから、どうぞ。

<登場人物>
翔子:主人公
ジャン:翔子の夫(イギリス人)

* * * * *

第1章:翔子ーフライト04

 ジャンは卒業すると教授の紹介で美術館にアシスタントキュレーターの職を得た。その2年後に学位卒業した翔子は、小さな古書店に勤めた。ジャンと暮らしていたアパートはシティの近くだったから、金融機関に就職すれば、もっと良い給料が得られただろう。だが、古書店は翔子にとって憧れであり、イギリス留学のきっかけでもあった。

 学者である父の書斎は本であふれていた。庭に面して窓の切られた北以外の三方の壁はすべて天井までの書棚になっていた。幼い翔子に読めるものはほとんどなかったけれど、それでも、本に埋め尽くされた父の書斎が大好きだった。父が北向きの日当たりの悪い部屋を書斎にしたのは、書物のためだ。昼でもうす暗い書斎は、幼い翔子にとって、それだけで秘密めいていた。
「おばけがでても、へっちゃらよ」
「ゴブリンと目があったら、にらめっこするの」
 ほんきで何かふしぎが起こらないだろうかと小さな胸をふくらませていた。翔子は絵本や子ども向けの本を持って父の書斎にもぐりこむ。そうして、そこから物語の世界へと飛び立つのだった。

「きょうは、パパがお仕事をしているから、本のお部屋に入ってはいけませんよ」
 母から注意されると、翔子の胸はどきん、と跳ねあがる。
「はぁい」と、ことさら大きな声で良い返事をするのだが、頭のなかはたちまち「今日の冒険」でいっぱいになり、ふわふわしだす。
 「本のお部屋」は、底なしの森になったり、空に浮かぶお城になったり、魔法使いの住む島になった。机に向かって背を向けている父は、天狗のときもあれば、あるときは海賊、あるときは魔物になった。大きな背中に気づかれてはいけない。どんな冒険の旅でも、それだけがルール。そのドキドキを抱えながら、翔子は嵐の海に船出し、天使の翼を手に入れて大空を飛びまわる。風がゆらす庭の木々の葉ずれは、妖精たちの笑い声。父が書き損じて捨てた原稿用紙は、宝の地図だ。

 ある日、自室から持ってきた物語を読み終えた翔子は、父の書棚を端から順に見て回った。父は留守で、書斎には翔子ひとりだった。午後も随分と過ぎていたのだろう。部屋はうす暗かった。色とりどりの背表紙。書かれている文字のほとんどは、まだ、読めなかったけれど、眺めているだけで胸がきゅっとなった。
 それを見つけたのは、東側の書棚だった。西側の棚から出発して、ようやく最後の壁にたどりついたとき、その本は、まるで翔子を待っていたかのように、そこにあった。
 ちょうど翔子の目の高さ。少し手垢で汚れて黒ずんでいたが、艶やかな真紅のビロードの表紙が、翔子をとらえた。金色の箔押しでアルファベットが並んでいる。外国の文字で書かれた書物はたくさんあった。でも、それらは紙や革の表紙で、ビロードの表紙なんて、他になかった。赤いビロードの背を小さな指でそっとなでる。指の動きに合わせて、起毛が波打ち夕刻の淡い光を反射する。はじめは息をとめて、うっとりと眺めているだけだったが。好奇心が手を伸ばす。ビロードの背に手をかけると、慎重に本棚から抜き取った。
 本を絨毯の上に置き、ようやく、ひとつ大きく息をはいて気づいた。ビロードの本には、鍵がついていたのだ。心臓が跳ねあがる。
 鍵のついている本!
「きっと、ひみつのまほうが書かれているんだ」翔子の胸が高鳴る。鍵といっても、錠前が付いているわけではなく、表紙の右端中央に丸い鋲のような金具がついていた。鋲のまわりを、縦横5センチくらいの板状の繊細な透かし模様の金細工が飾る。そこに裏から蝶番ちょうつがいでつながっている同じ透かし模様の板の穴をめ込むようになっていた。だから、鍵というよりは、留め具といった方がいいだろう。でも、翔子にとっては鍵だった。ドキドキしながら鍵を開けると、外国語の文字の美しい連なりのあいまに、天使が描かれていた。

 父が帰宅するのを待ちかまえ、「パパ、まほうのご本を見つけたの!」と、ビロードの本を両手で抱え、興奮しながら翔子は一大発見を告げた。
「ああ、それは、讃美歌集だよ」
「さんびかしゅう?」
「神様に捧げる歌が書かれている。『きよしこの夜』も讃美歌だよ」と教えられた。
「神さまのお歌ね」
 讃美歌がどういうものか、わかったわけではなかったし、それに、長らく翔子は、「サンビカシュウ」を魔法の呪文のひとつだと思っていた。赤いビロードの本は、翔子にとって特別な一冊で、宝物になった。 
 イギリスに留学するとき、スーツケースに真っ先に入れたのは、真紅のビロードの讃美歌集だ。あの日からずっと翔子の傍らにあった。英語に興味を持ったのも、古書に惹かれるようになったのも、すべてあの本が原点だった。


 隣でジャンがトーストにベーコンとソーセージをのせてかぶりついている。
 キャビンアテンダントが朝食の注文をとりにきたとき、ジャンはしばらく悩んでいた。ごはん、みそ汁、鮭の塩焼きのザ・日本の朝食にするかを。
あら、私の実家に着いたら、炊きたての、もっとおいしいごはんが食べられるじゃない。そう言うと、「それもそうだ」とイングリッシュブレックファストを頼んだのだ。
 ジャンは日本が好きだ。シティのはずれに彼が開いたギャラリーは、浮世絵や日本画をメインに扱うほどに。バースデーのディナーには和食をリクエストするほどに。
 だから。
 日本で暮らしたいと言えば、「うん、それもいいね」とすぐに快諾してくれただろう。だが、翔子から提案することはなかった。ギャラリーも軌道に乗ったことだし、というのもあった。イギリスに居てこそ、日本画の知識や鑑識眼が価値をもつということも、あった。ジャンの母親が病弱ということも、あった。でも、どれほどたくさんの理由があったとしても、それが言い訳でしかないことは、翔子がいちばんわかっていた。

 翔子はピンクグレープフルーツのジュースをグラスから直にあおる。かすかな苦みのまじった酸っぱい果汁が、喉を滑り落ちていく。
 まもなく関空に着く。


(to be continued)

05に続く。

全文は、こちらから、どうぞ。



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