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小説『虹の振り子』02

第1話(01)は、こちらから、どうぞ。

第1章:翔子ーフライト02

「ブレックファストだよ」
 ジャンに耳もとでささやかれて、我に返った。
 どうやらいつの間にか再び眠りに落ちていたらしい。朝焼けの雲海を眺めながら、遠い日の追憶にふけっていたように思っていたのだが、どこからが夢だったのだろうか。

 ジャンと出会ったのは、ロンドンに留学してまもないころだ。
 その朝は寝坊してあわてていた。キャンパス前の信号がウォーキングに変わるのを、せわしなく足踏みしながら待っていた。信号が変わるやいなや走り出したのはいいが、おろしたてのヒールがいけなかったのか、向こうから歩いてくる人の群れをうまくかわし切れず、肩がぶつかり、勢い余って小脇に抱えていたテキストをばらまいた。
 ああ、もう最悪。
 日本語でつぶやきながら、ちらばったテキストやレポートを拾い集めていると、目の前に数枚のペーパーが差し出された。はっと顔をあげると、典型的なアングロサクソン系のブロンドの青年が、風でとばされたレポートの何枚かを集めてくれていた。「ジャパニーズ?」と訊かれたので「イエス」とこたえると、「グッドラック」と言ってにっこり笑って反対側に去って行った。長いストライドで足早に去る後ろ姿は、かなりの長身だった。一陣の風のようなできごとに、礼すら言えてなかったことに翔子はあとになって気づいた。

「運命だと、思ったね」
 出会った日の話をするたびに、ジャンはそう言う。
 あの日、なんとか講義にまにあった翔子は、キャンパス内のカフェでランチをとりながら、テーブルをひとつ占領して次の講義の下調べをしていた。日本の大学とちがって、授業はシビアだ。それでなくとも言葉の壁がある。食事にはほとんど手をつけず、辞書を片手にテニスンの詩と格闘していると、ランチのトレーを手にした男性が、テーブルの前で足をとめる気配を感じた。「座ってもいいか」と訊くので、「どうぞ」といいながら、乱雑に広げていたテキストやら辞書やらを手早く片付け、顔をあげておどろいた。目の前には、朝の横断歩道の青年がにこにこしながら立っていたのだ。

 反対側で信号が変わるのを待っていたジャンによると、翔子はかなり目立っていたらしい。肩の下で切りそろえられたワンレングスの黒髪に、東洋系のエキゾチックな面立ちの少女が、歩道の最前列からフライング気味に、今にも駆けだしそうな様子で足踏みをしている。
「初めはね、ガールに見えたんだよ」
 翔子は平均的な日本人女性の身長だったが、欧米、それも特に北欧系の人の横に並ぶと、彼らの肩にも届かなかった。横断歩道前にたまっている学生の塊の中で、そこだけが谷のようにすとんと落ち込んでいた。そして、その低い位置にある頭がせわしなく動いているのが、気になってしようがなかったらしい。遠目では、その背格好から十歳かせいぜい十二歳くらいの少女にしか見えなかった。だから、驚いたのだ。風に舞ったレポートを集めて手渡したとき、顔をあげた翔子の長いまつ毛の下の凛とした黒い瞳にやどる色気に。
「実にチャーミングだったよ」
 美術史を専攻しているジャンは、もともと日本美術に興味があった。菱川師宣の『見返り美人図』を初めて目にしたときは全身に稲妻が走ったような気がした。カートゥーンのように平面的で、背景ひとつ描かれていない絵画なのに、その後ろ姿には立ち昇る体温が感じられ、振り向いた顔には点のような目と口が添え物のように描かれているだけなのに、妙になまめかしかった。構築的な西洋絵画を見慣れた目には、写実の根底を覆される強烈なブローだった。
 横断歩道の真ん中で、ジャンはあのときと同じ衝撃を受けた。
 日本美術に傾倒するにつれ、日本人に惹かれる傾向はあったけれど、それまでに出会った日本人は皆、どこか一様に幼いか、どこに意志があるのか判然としないもどかしさがあった。だが、顔をあげた翔子の大きな黒目がちの瞳には、静かで強い意志の光があやしく輝いていた。化粧の効果によるものではない。アイメイクをきちんとする欧米人の化粧に比べると、翔子はノーメイクに近い印象だった。いや、だからなのかもしれない。まっすぐに向けられた瞳の虹彩はしっとりとした輝きを湛えていた。
 濡れたようなつややかな黒を「烏羽玉ウバタマ」というのだと、ジャンは翔子と暮らすようになってから知った。翔子の瞳のことだ。
 そこが横断歩道の真ん中でなければ、そして、自分も急いでいなければ、まちがいなくカフェに誘っただろう。クラクションに急かされ、その場を走り去らなければならなかったことを、後でどれほど悔いたことか。
 だから、カフェテリアで翔子を見つけたとき、生まれてはじめて心から神に感謝した。運命の出逢いというものがあるのだとしたら、今がまさにそれだと確信して、トレーを持つ手が震えた。女の子に声をかけるのに、こんなに緊張し、うわずったことはない。

 ジャンはイギリス人にしてはシャイな方だと思う。それでも、こういうことをてらいも臆面もなく、事あるごとに語るなんて、日本人男性には考えられないことだ。
 父と母は仲が良い夫婦だ。父はよく滔々と語っていた。でも、それは天候のことであったり、庭の草木のことであったり、政治や経済など世の中の動きや学問についてであった。母とのなれそめはおろか、母に対する想いなど耳にしたことはない。母はいつも静かに微笑んでかたわらにあった。夫婦の形というよりも、父と母とはそのようなものだと思っていた。
 だから、翔子は最初、友人たちとのホームパーティーの席でほろ酔い加減のジャンが話し出すたびに、どんな顔をして横にいればいいのかわからず、居たたまれなくなってそっと逃げ出すこともしばしばだった。


(to be continued)

第3話(03)に続く→

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