見出し画像

小説『オールド・クロック・カフェ』 2杯め 「瑠璃色の約束」(4)

前回までのストーリーは、こちらから、どうぞ。
(1)から読む。
(2)から読む。
(3)から読む。

<あらすじ>
ガラス工芸作家の泰郎は、鳩時計の「時のコーヒー」を飲んで25年前の過去へ。妻を亡くし、娘の瑠璃とふたりで生きていくことになった年だ。偶然、遭遇した結婚式でブーケトスを取ってしまった瑠璃は、パパと別れるのは嫌だからと、ブーケを花嫁に返す。いつか本当に結婚するときには、パパとママを思い出せるガラスのネックレスを泰郎に作ってほしいと約束する。
<登場人物>
カフェの常連客:泰郎
泰郎の娘   :瑠璃
泰郎の妻   :美沙(交通事故で死亡)
カフェの店主 :桂子
桂子の祖父(カフェの先代店主)


* * forget me not * *

 リーンゴーン、リーンゴーン、ゴーン。
 高く厳かな鐘の音が、あたりの空気をふるわせ響きわたる。
 ことしの梅雨入りは例年より遅いようで、緑のまぶしい青天が広がっている。京都御所の石垣からせり出す緑陰の下を歩いていたブロンドの外国人観光客がふたり、音のする方向を振りかえる。通りの向かいに、バラ窓をもつ赤煉瓦のチャペルを見つけ、胸でクロスを切った。

 黒のタキシードがどうにも不釣り合いな男が、左ひじを不自然なほど横に張ると、その腕に花嫁がそっと手をかけた。
 男はバージンロードの先にある祭壇を緊張した面持ちで凝視していたが、腕に手を添えられたのを感じると、ふっと視線を横にすべらせた。花嫁の美しい胸のデコルテに、ガラスのネックレスがステンドグラスから射し込むやわらなか光を反射してきらめいている。レースのヴェールから透けてみえる瑠璃の横顔は、陶器の人形のように美しかった。


 泰郎はカフェから戻って工房を開けると、早速、いくつかのデッサンの試作に取りかかった。瑠璃の望みは、パパとママを思い出せるネックレスだ。俺と美沙を象徴するものって、何だろう。美沙と過ごしたのは瑠璃が5歳まで。5年といっても、瑠璃の記憶に残っているのは、最後の2、3年か。泰郎は記憶の糸を手繰りよせる。俺にとっての思い出ではない。瑠璃にとって、ママとの忘れられない光景はどれだ。
 瑠璃のやつ、せいぜい悩めって言いやがった。


 瑠璃が4歳の夏に沖縄旅行に出かけた。言いだしたのは、美沙だった。
「京都は、さあ。けっこう何でもそろってるけど。海がないから。瑠璃にほんものの海と水族館を見せてやりたい」
 美沙にしては、わりと強く沖縄行きを望んだ。
 梅小路に京都水族館ができるまで、たしかに京都市内には水族館がなかった。だからという訳でもないが、考えてみると、瑠璃を水族館に連れて行ってやったことがなかった。いや、水族館どころか。そもそも家族旅行にロクに行っていなかった。泰郎はふだんは飄々としているが、根っからの職人気質で作品に没頭しだすと休みも取らなくなる。工房を店にもしていたから、尚さら、まとまった休みを取るという発想がそもそもなかった。
 沖縄か。京都も北にあがれば日本海に出る。でも、きっと。明るい太陽の降りそそぐサンゴ礁の海は、空も海も色がちがうんやろな。行ってみるか。

 瑠璃は初めての飛行機に大きな目をさらに丸くしていた。離陸すると、ビルが高速で小さくなり、どんどん自分が空の上にあがっていく感覚に「ママ、ビルが、雲が」と声をあげ、フライトアテンダントのお姉さんがキッズセットを手渡してくれてもそっちのけで、シートベルトのサインが消えると、座席の上で膝立ちになってずっと窓の外を眺めていた。
 瑠璃の興奮は水族館でピークに達した。全面アクリルガラス張りの大きな水槽では、たくさんの見たこともない色鮮やかな魚たちが泳ぎ回っている。その迫力。ふだんは誰よりもおしゃべりな娘が言葉を失い、泰郎と美沙の服や手を引っ張りながら「ママ、ママ」か「パパ、パパ」しか言わない。その先の言葉が続かないのだ。テレビやビデオで見たことはあったはずだ。でも、実際に目の前のガラス越しに泳ぐ魚たちのダイナミックさに瑠璃の心臓は沸騰し、息もつけずにいるようだった。
 泰郎も美沙も、娘の興奮状態に顔を見合わせ、笑いあった。
「ほらね、連れてきて良かったでしょ」美沙がウインクする。
「ああ、そやな」
 素直にまっすぐに感動している瑠璃の姿に、泰郎は感動していた。まっさらな心が、初めて目にする世界に全身でふるえている。このまぶしい感受性を、人はいつのまに失ってしまうのだろう。世界は驚きに満ちているということを忘れてしまう。泰郎は錆びついてしまった自らの感性を思わずにはいられなかった。

 翌日は、海洋博公園の北端にあるエメラルドビーチに行った。その名のとおり、鮮やかなエメラルドから澄んだコバルトブルーへとグラデーションを描く海。どこまでも高く青く抜ける空。まっ白なビーチは太陽の光を反射して輝いていた。その美しさに泰郎は、ここは同じ日本かと思った。日本海や瀬戸内の海にある鄙びた情緒などかけらもなく、明るく朗らかに澄みわたって凪いでいた。
「瑠璃、ほら、これが星の砂よ。砂がお星さまの形をしてるでしょ」
 美沙が掌に星の砂をひと粒ずつ並べて、瑠璃に見せる。
「お星さまの砂!」
 瑠璃が目を輝かせる。
「きらきら星が落ちてきて砂になったの?」
「ふふ、そうかもね」
 つばの広い黒の麦わら帽子をかぶった美沙が微笑む。その笑顔を見て、瑠璃も満面の笑みを浮かべる。サンゴ礁の海が広がるビーチで家族3人で星の砂を集めて小瓶に詰めた。

 確か、あの小瓶がどこかにあったはず。


 明日は結婚式という日の黄昏時、泰郎は瑠璃からカフェに呼びだされた。約束のプレゼントはそこで渡すという。夕暮れが迫る時刻のカフェには、他に客がいなかった。表庭の窓から西陽が斜めに射しこみ、柱時計たちが勝手気ままに時を刻む旋律がBGMがわりに響いていた。
 からからから。
 泰郎が格子戸を開けると、瑠璃はもうカウンターに腰かけ、桂子とくすくす笑いながらおしゃべりをしていた。泰郎の姿を認めると、瑠璃はここに座れとでもいうように、自分の隣の椅子を指さす。
「ネックレス、できあがってるよね」
「もちろんや」
 泰郎は信玄袋から白い革張りのジュエリーボックスを取り出して、瑠璃の前に置いた。瑠璃がボックスを見つめ、ゆっくりと手をのばす。桂子もカウンターの内から、固唾をのんで見守っている。
 瑠璃が蓋を開けた。
 
 青く澄んだ瑠璃色のティアドロップ形のペンダントトップが、ボックスの中で輝きを放っていた。
「うわぁ。きれい‥」
 声をあげたのは、桂子だった。
 瑠璃色のガラスの内側には星の砂が、夜空にまたたく星のごとく散りばめられ、3つの小さな明るい星が輝いていた。ラピスラズリと、ルビーと、メレダイヤがひと粒ずつ。ラピスラズリは、もちろん瑠璃だ。ルビーは美沙の誕生石。そしてダイヤが泰郎の誕生石だった。天の川のように並ぶ星の砂の宇宙に、3つの星が本物の輝きをきらめかせている。それだけではない。淡い水色のガラスの忘れな草の花が、ペンダントの表面を彩るようにドロップの滴の下のほうに散りばめられている。花びらを1枚1枚手作りした、繊細なガラスの花だ。まるで忘れな草の花畑の上に瑠璃色の宇宙が広がっているようだった。大ぶりのティアドロップの下には、宝石が3つ縦に連なってぶらさがっていた。小さな真珠とルビーとダイヤがひと粒ずつ縦列に並んでいる。石と石のあいだを、宝石よりもさらに小さなクリスタルガラスのビーズがつないでいた。

 瑠璃の目尻に涙の粒が、ひと粒光る。
「お父さん、これ‥。沖縄でひろった星の砂?」
「ああ」
「思い出してくれたんや」
「3人で行った最後の思い出の旅行やからな」
「この赤い石は、ルビー?」
「そや、ママの星。青い星はラピスラズリ。瑠璃の星や。ダイヤは俺の誕生石」
「お前の誕生石の真珠は、ドロップの下につけた。上から、瑠璃、美沙、俺の順や」
 瑠璃はペンダントを見つめたまま、泰郎の説明を胸で受けとめる。時計たちも、いつのまにか静かになっている。

「なぁ、瑠璃。お前になんで、『瑠璃』って名前付けたと思う?」
「え? ラピスラズリやからと、ちゃうの?」
「まぁ、それもある。せやけど、ラピスラズリは宝石や」
「『瑠璃』はな、ガラスの古い呼び名でもあるんや」
「ガラスの瑠璃。ラピスラズリの瑠璃。神秘的な青の瑠璃色。美しいものが3つも重なってる。生まれてくる娘の名前に、これほどふさわしいものはないと思った」
「瑠璃ちゃんのイメージにぴったりの名前やね」
 桂子がカウンターの内から相槌を打つ。
「そんな意味とイメージと、それから家族の思い出と。全部つめこんで、こしらえた」
「どやろな? 気に入ってもらえるもんに、仕上がってるやろか?」
 泰郎が瑠璃の瞳を見つめながら、ためらいがちに訊く。
 瑠璃も泰郎をまっすぐ見つめ返す。
「ありがとう、お父さん。最高のネックレスよ。ほんまに、ありがとう」
 深い余韻のような静寂が、一瞬、カフェを満たした。
 その沈黙を解いたのは、桂子だった。明るい声で瑠璃にねだる。
「ねぇ、瑠璃ちゃん、ちょっと付けてみてよ」
 その提案に、泰郎がもう一つ白いジュエリーボックスをカウンターに置いた。細長い箱だ。
「チェーンをな、2本用意したんや。結婚式には、ベビーパールのチェーンがええけど。ふだん使うには、ちょっと派手やろ。せやから、ふだんはこっちのプラチナのチェーンを使うとええわ」
「じゃあ、パールのチェーンで付けてみる。桂ちゃん、後ろ留めてくれへん?」
 桂子がカウンターを出て、瑠璃の背にまわる。瑠璃がセミロングの髪を片方にさっとまとめると、細いうなじが露わになった。
「はい。長さは、どう?」
 桂子が背中越しに訊く。
「うん。ちょうど、ええよ」
 涙の雫の形をしたペンダントは、瑠璃の鎖骨の下にぴたりとおさまった。青い宇宙が瑠璃の胸できらめき揺れる。しだいに入射角を下げてきた残照が、まるでスポットライトのようにまっすぐにネックレスを照射し、その輝きをひときわ美しいものとしていた。

「で、瑠璃は、俺に何をプレゼントしてくれるんや」
 泰郎はずっと気になっていたことを尋ねた。
「これよ」
 瑠璃は、泰郎とは反対側の椅子の上に置いていた紙袋からノートの束を取り出しカウンターに並べた。
「すごい数のノートやな」
「うん。25冊。25年ぶんの日記」
 25年ぶんの日記やて。泰郎が目を丸くする。

「あの日ね、幼いなりに考えたの。お父さんが、寂しくならへんもんって、何やろって」
「ラジオの打ち合わせの後、マンガミュージアムに行ったでしょ。ミュージアムショップでこれを見つけて。『これや』って思った」
 『リボンの騎士』のサファイアが描かれた色褪せたノートを取り上げる。表紙には「にっきちょう」とある。そういえば、あの日、瑠璃からこのノートを買ってくれとせがまれたことを泰郎は思い出した。
「日記やったら、毎日のできごとを書くから。お父さんも瑠璃のこと思い出して寂しくならへんやろうなって」
「まあ、初めのほうは絵がほとんどやし。まじめに書いてたんは小学生のころだけやけどね」
「思春期になったら、恥ずかしいというか、照れくさくなってしもて。読んだ本とか、観た映画のタイトルとか。行った場所とか。まあ、備忘録みたいになったけど。それでも、うちが何をしてたかぐらいはわかるかな」

 泰郎は言葉を発することもできず、カウンターに積まれた25冊のノートを見つめた。瑠璃は、あの日からずっと「約束」を果たし続けていた。25年もの間、ずっと。比べて俺は、つい先日まで「約束」そのものを忘れていた。泰郎はその事実に茫然とし、目の前に積まれた時間の重みを思わずにはいられなかった。

「25年ぶんのラブレターやね」
 桂子がぽつりと、感動をそのまま口にする。
 柱時計たちが「そのとおり」とでもいうように、ぼーん、ぼーんと時の声をあげた。
「もう、桂ちゃん。ラブレターやなんて。そんなん、ちゃうちゃう」
 瑠璃が照れ隠しも手伝って、大げさに手を振る。
 25年ぶんのラブレター。ほんまに、そやな。ありがとう、瑠璃。
 泰郎は涙がこぼれそうになるのをごまかそうと、壁の柱時計に視線を走らせた。

「結婚式をなんで6月10日にしたか、わかる?」
 瑠璃が泰郎の瞳をのぞきこむ。泰郎は涙をぐっと喉の奥で呑みこむと、いつもの口調でこたえる。
「いや、お前、桂ちゃんの誕生日やからって言うてたやろ」
「うん。それは1つめの大きな理由」
「2つめは、桂ちゃんと初めて会った日。つまり、私に妹ができた日」
 ああ、それは、出会いが桂ちゃんの2歳の誕生日パーティやったからな。
「ほんで、3つめやけど‥‥」
 瑠璃が『リボンの騎士』の日記帳に手を伸ばし、最初のページを開く。
「ほら、ここ見て」
 瑠璃が指した最初のページには、たどたどしい字で「6がつ10にち」と書かれていた。
 あの日の結婚式も、6月10日やったんか。瑠璃と俺が「約束」をした日。そら、この日しかないわ。

「あ、そうや。桂ちゃん、この日記帳は、明日までカフェで預かってね」
「え、なんでや」
 泰郎が思わず声をあげる。
「だって、お父さん、意外と涙もろいから。今夜、これを読んだら、きっと泣くよね。明日はバージンロードを一緒に歩いてもらわんとあかんねんよ。涙で腫れぼったくなった顔で横に並ばれたら、いややん」
 相変わらず、表向きは憎たらしいことを言いながら、その裏にそっと思いやりを隠す。
「うちは、かまへんけど。泰郎さん、それでええの?」
 桂子が気遣いながら、たずねる。
「ああ。明日、披露宴終わったら、取りに来るわ」


 リーンゴーン、リーンゴーン。
 鐘の音を合図に、結婚式を終えたばかりの新郎新婦がチャペルの扉を開けて姿を現した。鳩が空に向かって放たれる。白い翼が6月の青天へと羽ばたきながら舞いあがる。
 ああ、あの日と同じ光景だ。
 ふたりの登場を鳴りやまぬ拍手が迎える。フラワーシャワーの花びらが舞う。純白のウエディングドレスをまとった瑠璃は、桂子の姿を認めると、まっすぐにブーケを投げた。花束はきれいな放物線を描いて、桂子の広げた腕に吸い込まれるように落ちていく。歓声が沸きあがる。拍手がいちだんと高く大きく空に響いた。


「マスター、披露宴が終わったら、カフェでコーヒーを淹れてくれんか」
「そら、かまへんけど。今は、わしやのうて、桂子がマスターやで。桂子のコーヒーじゃ、あかんか」
「いや、桂ちゃんのコーヒーも旨いで。でも、桂ちゃん2次会に行くやろ。今日は一日、瑠璃が桂ちゃんを放さへんわ」
 花嫁の横に淡い水色のワンピース姿の桂子が並んで、写真を撮っていた。手にはブーケを抱えている。互いに見つめあって笑う。ふたりの笑顔に陽光が降りそそいでまぶしい。泰郎は、そんなふたりを目を細めて眺める。

「瑠璃からの25年ぶんのラブレターを、カフェで預かってもろてるんや」
「25年ぶんのラブレターか。そら、すごいな」
 マスターが泰郎の隣に並び、同じ方角を見ながら話す。黒のタキシード姿と紋付き袴のふたりの男の真上の空高く、白い鳩が飛び交う。

「なあ、マスター。俺、まだ泣いてへんで」
「ああ」
「瑠璃の前で、涙は見せられへんからな」
「せやな」
「あっというまやった。25年も」
「そやな」
「娘って、ずるいなぁ」
「けど、かわいいやろ」
「雨降ってへんのに、目がかすむわ」
「とっておきの豆、挽いたるで」
「そりゃ、楽しみや。ほな、後で行くわ」
「ああ、待ってる」

 瑠璃がウエディングドレスのたっぷりとしたタックを両手でつまんで駆けてくる。泰郎は慌てて、天を仰いでまなじりをぬぐった。
「はい、これ」
 ブーケから抜き取った忘れな草をブルーのリボンで結んだ花束を、泰郎に差し出す。ほんの一瞬、5歳の瑠璃の笑顔がそこに浮かんで消えると、美沙のふわりとした微笑がかさなった。
「お父さん、ありがとう」
 胸のネックレスに手を添え、はにかむような笑みを浮かべる。泰郎に手渡した忘れな草を指さし「忘れな草の花言葉知ってるよね」と言い残すと、新郎と桂子が待つ輪の中に駆け戻って行く。
 瑠璃色のネックレスが6月の陽の光にきらめき揺れていた。

 「forget-me-not か。forget-us-not やな、美沙」
 泰郎は娘の背を目で追い、そして天を見上げる。
 まぶしい光を浴びて純白の翼が空に透けて舞っていた。


(2杯め Happy End) 

「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白



「1杯め」の話は、こちらから、どうぞ。

https://note.com/dekohorse/m/ma90b61796f3b


#短編小説 #創作 #みんなの文藝春秋 #連載小説 #物語



この記事が参加している募集

#私のコーヒー時間

27,031件

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡