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『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(6)

第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(第5話)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『オールド・クロック・カフェ』には時計に選ばれた客しか飲めず、過去の忘れ物を思い出す「時のコーヒー」という不思議なコーヒーがある。
ランチの客がひけた店に祖父が母を伴って訪れる。桂子と母の間には長年、溝がある。時計が母と桂子の両方に鳴った。二度も続けて時計が鳴ったのは初めてだ。「時のコーヒー」が見せたのは、桂子が中学一年生のときにふたりで行った南座の顔見世の場面だった。ふたりは、それぞれの視点で同じ場面を回想する。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
祖父‥‥‥‥カフェの前店主
万季‥‥‥‥桂子の母
公介‥‥‥‥桂子の義理の父

* * * Bitter Memory * * *

 うっすらと目をあけると頬は濡れてひりついていた。桂子は音のするほうに顔を向ける。一番の古時計はまだ十二時三十分を指していた。あの日でとまったままの時間。
「二人とも、ほら」
 不意にハンカチが差しだされた。ふくよかな手をたどると母の隣に父が座っていた。
「お父さん」
「あなた」
「なんで?」
 母と桂子の声が重なった。
「さすが親子。きれいにハモってるね」
 父は笑みを浮かべる。
「お義父さんがな、知らせてくれはった」
 祖父が湯気の漂うコーヒーを運んできた。カップを四客並べ、祖父は桂子の隣、公介の向かいに腰かけた。
「父さん、いらんことを。あなた、仕事は」
 斜め向かいから母が祖父をなじる。それを、まあまあとなだめ公介が言葉を継ぐ。
「ぼくがおっても役にたたんけど。きみが苦しんでたことも、桂ちゃんが自分を責めてたことも知ってる。胸にしまってることを二人とも吐きだせるよう、勇気をだせるよう、応援ぐらいやったらぼくにもできるやろ。家族なんやから」
 な、と公介は万季の顔を覗きこむようにしてその手をとる。
 男のくせに丸くてふっくらした湿っぽい手。その手で握られると、万季のささくれだった気持ちが凪ぐ。
「仕事は半休とったから気にせんでええ。ぼくの仕事が融通きくことぐらい、きみも知ってるやろ」
 父は製薬会社のMRで、看護師だった母とは定期訪問先の病院で知り合ったそうだ。
「お母さんはどんな場面を見たん?」
「桂ちゃんと最後に行った顔見世」
「同じや」
 桂子は古時計をちらっと見る。
「うちの言葉が桂ちゃんを傷つけたんやろ。でも、どこが、何があかんかったんか……」
 唾を呑みこみ母は喉を鳴らす。
「さっぱりわからんの、ごめん」
 テーブルに額がつくほど頭をさげると、つむじの根もとが伸びて白髪が渦の中心を形作っているのが目につく。
「お母さんが悪かったんやない……と思う」
 うまく説明できるかわからんけど、と言うと母が頭をあげた。
「クラスじゅうから無視された原因は勉強やった」
「やっぱり、うちが」と母が口を挟みかけるのを「あたし、話がへたやから最後まで聞いて」と制す。
 桂子は足もとを確かめるように話した。母にわかってほしいというよりも、自分で自分の心を確かめる作業だった。
「きっかけが国語で学年一位をとったことやったから、テストの点数を下げれば受け入れてもらえるって思った。けどお母さん、成績にうるさかったでしょ。英語が72点やったときは家庭教師の時間増やそうかって叱られて。こわくて60点台まで落とす勇気がなかった。成績を下げたい、けど下げるのもこわい。どうしたらいいか、わからんようになって」
 窒息しそうだった感情を思い出す。
 出口の見えないトンネルにいた。前にも後ろにも、右にも左にも進めず「勉強」の闇に押しつぶされそうだった。
 過ぎてしまった今ならわかる。少女たちの感情は単純で、そのくせ複雑で気まぐれ。きっかけなんて何でもよかったのだ、標的さえいれば。制服のスカート丈がなまいきだとか。男子に媚びを売ってるとか。いい子ぶってるとか。中学三年間でたいていの女子が一度ははじかれた。学校ヒエラルキーのトップにいても同じ。気まぐれに一人だけがはじかれる椅子取りゲーム。何でそんなことにエネルギーを使ったのか。誰もが思春期の扉の前でびくつき全身を逆立てていた。
「勉強で勝ったらええ、っていわれて呆然とした。勉強のせいやのにって」
「ほな、やっぱり」
 言いかけて母は、はっと口をつぐむ。
「でも傷ついたのとはちょっとちがう。うまく言われへんけど、お母さんがお母さんでなくなったことにショックを受けた……が近いかな」
「は?」
 母が調子はずれな高音を漏らし慌てて、ごめん、と口を閉じる。
「あの頃のあたしにとってお母さんは、おおげさじゃなく、神様と同じ存在やったの。何でもできて、何でもかなえてくれて。あたしのことは全部わかってくれてる絶対的な存在。大きな翼で庇護してくれる万能の存在って、ほんまに思ってた」
 それが、と桂子は続ける。
「望んでたのとは百八十度違う答えをすぱっと返されて。わかってもらえんのやって。絶望とはちゃうよ。衝撃……が近いかな」
 あの日の感情がフラッシュバックして喉がひりひりする。
「勉強がんばらんでええよ、っていうたら良かったんやろか」
 母が上目づかいできく。
「そやね、それに近いのを期待してたんやと思う、心のどっかで。お母さんならあたしの欲しい言葉をくれるって」
 クラスメイトの気持ちはどうにもできないから、成績を下げてもよい免罪符が欲しかったのだ。
「お母さんがね、急に知らない人みたいにみえた。それまではお母さんとひとつやったのが、すぱっと切り離された気がした」
 ちょうどあんな感じ、と言いながら桂子は古時計に目をやる。時計は十二時三十分を指して長針と短針が文字盤を二分している。

「でも、いちばん問題なのはあの日のことをあたしが忘れてたこと」
 母が怪訝な顔をする。
「顔見世の後からかな。お母さんと話そうとすると心臓がぎゅって緊張して体じゅうの細胞がざわざわして逃げ出したくなった。何でそんなふうになるんか。どうしてお母さんに優しくできへんのか。笑顔がこわばるんか。友達はみんな、お母さんと高島屋で買い物して靴買うてもろたとかうれしそうに話すのに。何であたしはできへんのやろ、おかしいんやろかって」
 桂子は唇を噛みしめる。
 時のコーヒーでやっとわかった。
 あの日私は自分で「自立」の扉を閉めたのだ。
 母は万能の存在ではなく、自分と同じ人間でしかないという事実を認めるのが怖くて、ぱたんと扉を閉めて逃げた。母の翼の下から巣立つことを拒否しうずくまった。「母」という存在と向き合い精神的に自立しなければいけなかった。そのチャンスだったのに。無意識に蓋をしたため溝だけが残った。肝心のことを忘れているから、母から逃げたくなる感覚のわけがわからず戸惑い続けた。
 あの後ね、と桂子は回想する。
「学校に行けたり、行けなかったりしてたでしょ」
 朝になるとお腹が痛くなった。「生理でもないのにねえ。まだ周期が定まってないからやろか」元看護師の母も初めはそう見立てた。家にいればおさまる。けど母があれこれかまってくると、また痛くなる。よけいに母が心配する。そのループ。そのうちに母は桂子の腹痛が精神的なものだと気づいた。思い当たるのはクラスでの人間関係だけ。横になっている娘を残し、担任教諭との面談に出かけた。母が精力的に動き回るほど桂子は萎縮した。きっかけは学校だったはずなのに、いつのまにか母から逃げ出したくなっていて、そんな感情をどうしていいのかわからなくなっていた。
 学校を飛び石で休んでいるうちに、いじめのターゲットは他の子に移っていた。友達関係はなめらかになったけれど、母への感情は一方的にざわざわしたまま桂子の胸に巣食った。
 皮肉なことに成績は坂道をころがるように下がった。どうにも気力がわかず、高校も短大も母が選ぶところへ進学した。敷かれたレールに従いながら、母に対する感情との折りあいがつかず、桂子はどんどん自分の内側に閉じこもった。
  
 そこまで夢中で語ると、桂子は心臓の昂りを鎮めるように胸を両手で押さえた。長距離走を走り終えたあとのように呼吸が落ち着かない。自らの内にこんな感情が根をおろしていたのか。「わかってくれへん」と拗ねながら、同時に母から逃げようとする、その矛盾。あたしは、あの日の幼い感情のまま膝を抱えて心の奥底で閉じこもっていたのだ。
 万季はそんな娘をじっと見つめ、
「てっきり別のことが原因やと」と言いかけ口をつぐんだ。

(to be continued)

第7話に続く。


 

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