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【書評】永田希『再読だけが創造的な読書術である』

永田希『再読だけが創造的な読書術である』を読む。

noteの「つぶやき」用に140字の書評に挑んだが、どうしても収まらない。

本書の主張はタイトルどおり、「再読だけが創造的な読書術である」である。前著『積読こそが完全な読書術である』と同じように、古今東西の文献を渉猟し、一読で終わらせるには惜しい読書という営みに、「再読」の価値を提案するという試みだ。

ただ、それはどこか不完全燃焼に終わった印象だ。

前著では、投資のポートフォリオにたとえた「ビオトープ的積読環境」の提言が秀逸だと感じた。

本書では、読書により言葉や知識、情報が結びつく「ネットワーク」を、再読によって組み替えることを、「地球外惑星の地球的環境への『作り替え』の計画」である「テラフォーミング」にたとえている。

このテラフォーミングのたとえが、よく分からない。

たとえ、または比喩ひゆを小学生に説明するなら、「書き手の伝えたいことを、読み手に身近で分かりやすいものに託して表わすこと」となる。そのとき「たとえるもの」と「たとえられるもの」の間には、書き手も読み手も理解できる共通点や類似点が必ず存在する。

「少女のほおは、まるでリンゴのようだ」

とあるなら、少女の頬をリンゴにたとえて、そこに「赤い」という共通点または類似点がある。

もちろん、リンゴと聞いて、薄緑色の皮をした青リンゴや、ウサギに模して切ったリンゴ、シンガーソングライターの椎名林檎を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、世の中の多数派が思い浮かべられることを見越して、少女の赤く染まった頬を赤いリンゴに喩えたのだ。

たしかに本書には「テラフォーミング」の具体的な説明はある。だが、再読による「ネットワーク」の組み替えを「テラフォーミング」に喩えても、あまり身近に理解できなかった。著者は、ある書物を読んだときに、関連する事柄について述べている書物を読むことも「再読」と呼んでいるが、残念ながら我が家の書棚には、「テラフォーミング」に言及した書物は積んでいなかった。

そう考えると、前著の「ビオトープ的積読環境」も、たまたま「ビオトープ」についての知識があったので、喩えとして受けとめやすかったまでで、「ビオトープ」を知らない読者には、身近に理解できなかったかもしれない。

前著に引き続き登場するプラトン『パイドロス』は我が家の書棚で読まれることを期待して積まれている。「フラットに読む」ことを気づかせるトリスタン・ガルシア『激しい生』は興味をそそられる。まさに「ビオトープ的積読環境」にふさわしい書物を本書でもたくさん紹介してくれるが、再読が創造的な営みにつながると思える内容に乏しいのが残念に思う。

「再読するに値する書物こそ、よい書物だ」という作家・倉橋由美子の考えが私が読書するうえでの指針だ。批評家・小林秀雄がいう「熟読玩味」の大切さも身体にしみわたっている。それだけに、本書は「再読」の新たな価値や視点を期待していた。

ただ、まだ「初読」である。

本書で筆者は、ウラジーミル・ナボコフの「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ」という言葉を紹介し、読書を絵画観賞にたとえる。

ナボコフにとって、ふつう「初読」と呼ばれる段階は、「ある絵画作品が目に入る一瞬の出来事」に相当します。そしてナボコフにとっての読書=再読は、ある絵画作品を目にとめて、よくよく眺めるという段階に相当しているということになります。
永田希『再読だけが創造的な読書術である』p177

よって本書も「再読」してこそ真価が分かるのだろう。そういえば、引用元の『ナボコフの文学講義』も「ビオトープ的積読環境」である我が家の書棚に、いまかいまかと読まれることを待ちながら積まれている。

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