見出し画像

考えるとは、身をもって相手と交わること

「人生観」の「観」とは何か? 小林秀雄はその語感から仏教思想に源を探り、「禅」の話になっていく。

禅というのは考える、思惟する、という意味だ。禅観というのは思惟するところを眼で観るという事になる。だから仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考える事と見ることが同じにならねばならぬ、そういう身心相応した認識に達する為には、また身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうかと思われます。

『私の人生観』

考えるとはなにか?
観るとはなにか?

この二つの問いを小林秀雄自身が徹底的に追求したうえで、「考える」と「観る」を融合したもの、または同一化したものが、いわゆる「直観」ではないだろうか。

もちろん、小林秀雄は「禅観」を追求したわけではない。ベルクソン哲学の影響もあるだろう。それでも、小林秀雄のいう「直観」は、ただ辞書に載っている意味や、「直感」と区別せずに自称評論家やビジネス書の著者が安易に使っている「直観」とは異なるはずだ。

そんな小林秀雄の「直観」を明らかにしたい、整理したいというのも、この『私の人生観』をありえないほど丁寧に読み解きたい動機でもある。

では、小林秀雄にとって、考えるとはどういうことか? 思い浮かぶのはベストセラーとなった『考えるヒント』である。そこに、そのまま『考えるという事』という作品が収録されている。そこで小林秀雄は、本居宣長の「考え」に対する考察を紹介している。

彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物に身を感じて生きる、そういう経験をいう。

『考えるという事』

この本居宣長についての説明は『考えるという事』が発表された12年後の『講義「信ずることと考えること」後の学生との対話』でも繰り返されていて、講演CDにも収録されている。学生相手の話し言葉による説明なので、実はこちらのほうが分かりやすい。

〈考える〉ことを、昔は〈かむかふ〉と言った。宣長さんによれば、最初の〈か〉に意味はなく、ただ〈むかふ〉ということだ、と。この〈む〉というのは〈身〉であり、〈かふ〉とは〈交ふ〉です。つまり、考えるとは〈自分が身をもって相手と交わる〉ことだと言っている。だから、考えるというのは、宣長さんによると、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。

『講義「信ずることと考えること」後の学生との対話』

この講演でも、別の作品でも、小林秀雄はインテリというものを徹底的に嫌っている。ただ知識をひけらかすだけで、身体性も現実性もなく、対象に誠実に向き合っていないという。つまりは、考えていないのだ。

遅れてきた読者からすると、小林秀雄の文章は、エセ批評家や「哲学者」研究者の文章とは異なり、批評用語や術語が少ない。彼らは、そのような言葉を「知識」だと勘違いしてひたすら並べ、つなげ、高尚ぶって論じている。書き手として、〈自分が身をもって相手と交わる〉ことをしていない。

小林秀雄の文章は、理論や専門用語に頼らず、徒手空拳で、対象と交わろうとしている。それは、〈自分が身をもって相手と交わる〉すなわち、考えているからだ。小林秀雄の文章が難解に思えるのは、〈自分が身をもって相手と交わる〉ことを、読み手が実践していないともいえる。

小林秀雄の「考える」を、身をもって交わってみたい。

(つづく)

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。