考えるとは、身をもって相手と交わること
「人生観」の「観」とは何か? 小林秀雄はその語感から仏教思想に源を探り、「禅」の話になっていく。
考えるとはなにか?
観るとはなにか?
この二つの問いを小林秀雄自身が徹底的に追求したうえで、「考える」と「観る」を融合したもの、または同一化したものが、いわゆる「直観」ではないだろうか。
もちろん、小林秀雄は「禅観」を追求したわけではない。ベルクソン哲学の影響もあるだろう。それでも、小林秀雄のいう「直観」は、ただ辞書に載っている意味や、「直感」と区別せずに自称評論家やビジネス書の著者が安易に使っている「直観」とは異なるはずだ。
そんな小林秀雄の「直観」を明らかにしたい、整理したいというのも、この『私の人生観』をありえないほど丁寧に読み解きたい動機でもある。
では、小林秀雄にとって、考えるとはどういうことか? 思い浮かぶのはベストセラーとなった『考えるヒント』である。そこに、そのまま『考えるという事』という作品が収録されている。そこで小林秀雄は、本居宣長の「考え」に対する考察を紹介している。
この本居宣長についての説明は『考えるという事』が発表された12年後の『講義「信ずることと考えること」後の学生との対話』でも繰り返されていて、講演CDにも収録されている。学生相手の話し言葉による説明なので、実はこちらのほうが分かりやすい。
この講演でも、別の作品でも、小林秀雄はインテリというものを徹底的に嫌っている。ただ知識をひけらかすだけで、身体性も現実性もなく、対象に誠実に向き合っていないという。つまりは、考えていないのだ。
遅れてきた読者からすると、小林秀雄の文章は、エセ批評家や「哲学者」研究者の文章とは異なり、批評用語や術語が少ない。彼らは、そのような言葉を「知識」だと勘違いしてひたすら並べ、つなげ、高尚ぶって論じている。書き手として、〈自分が身をもって相手と交わる〉ことをしていない。
小林秀雄の文章は、理論や専門用語に頼らず、徒手空拳で、対象と交わろうとしている。それは、〈自分が身をもって相手と交わる〉すなわち、考えているからだ。小林秀雄の文章が難解に思えるのは、〈自分が身をもって相手と交わる〉ことを、読み手が実践していないともいえる。
小林秀雄の「考える」を、身をもって交わってみたい。
(つづく)
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