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なぜ科学も哲学も知覚の助けとならないのか

小林秀雄は「美」をどのようにとらえるかという問いに対して、大きな影響を受けている哲学者アンリ・ベルクソンの著作『思想と動くもの』から、知覚の変化・拡大についての考えを紹介する。人間の知覚は、とかく曖昧で間違いやすい。だから、それを補うために二つの方法を採り入れた。一つは科学、もう一つは哲学だという。

ただ、結論からいえば、その2つによって知覚は変化しないとベルクソンはいう。なぜ科学も哲学も知覚の助けとならないのか。

まず、科学で知覚を補おうにも、つまりは計量である。知覚を量という切り口でとらえるだけでしかない。質は科学ではとらえられない。そこで質を受け持つものとして、哲学がある。

ただ、知覚の補助として援用する場合、哲学はいくら普遍を突き詰める営みだとはいえ、哲学者の人数だけ、哲学による考え方が存在してしまう。さらにヘーゲルの弁証法のように対立する考え方も現れて、ますます異質なものが増えてしまう。

よって、科学も哲学も、知覚を拡大することは難しい。人は眼に見えるものしか見えない。どんなに注意を向けても、知覚の世界に、何か新しいものを生み出すことはできないのではないか。

ベルクソンについての研究者から叱られてしまうかもしれないほど大胆に要約したが、小林秀雄は、『私の人生観』の講演録に加筆する際、『思想と動くもの』を脇において参照したと思えるくらい、そのまま紹介している。

『思想と動くもの』は1934年の刊行だが、河野与一訳が発表されたのが1952(昭和27)年で、『私の人生観』よりも後である。該当部分は1911年にイギリス・オックスフォード大学で行われた講演だったことから、その翻訳はすでに存在していたかもしれない。しかし、小林秀雄はおそらく、そのままフランス語で読み、解釈して、『私の人生観』に加筆したのではないかとみている。

今回参照しているのは2013年刊行の原章二訳『思考と動き』(平凡社ライブラリー)だが、ベルクソン哲学はおもしろい。小林秀雄がおもしろいから、ベルクソンをおもしろいと思えるのか。ベルクソンがおもしろいから、小林秀雄もおもしろく読めるのか。ただ、小林秀雄によるベルクソン論である『感想』には、まだたどりつけないが、小林秀雄とベルクソンは併読するに値する。

(つづく)

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