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小林秀雄を読む日々

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『小林秀雄全作品』全32巻を、あきれるほど丁寧に読んでいきます。まず「『私の人生観』にたゆたう」を完結。新連載を準備中です。
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2022年11月の記事一覧

realism、culture、technique

『私の人生観』という課題を与えられた小林秀雄は、その「観」という言葉ひとつから思い浮かん…

既視の海
1年前
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正岡子規の客観写生と小林秀雄の「観」

「話が脇道に外れてしまいました」と小林秀雄も認めたところで、次は再び短歌に話が戻る。 こ…

既視の海
1年前
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Cultureの本当の意味とは

自分では真っすぐに話しているつもりでも、周りからは話が逸れている、脱線していると思われて…

既視の海
1年前
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月を見て心がざわめくのは何故か?

「観」から思い浮かぶ考え方として、しばらく仏教思想について語ってきた小林秀雄だが、ここで…

既視の海
1年前
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己に、とらわれるな。

小林秀雄の「空」に対する考察はまだまだ続く。近代科学で用いる因果関係と、仏教思想の因果律…

既視の海
1年前
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万物流転と諸行無常

小林秀雄の文章を批判する物言いの一つに、論理の飛躍がある。AだからB、BだからCとたどってい…

既視の海
1年前
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小林秀雄から釈迦、そして再びウィトゲンシュタインへ

人はなぜ死ぬのか。 そもそも死とは何か。他人の死を目撃した人はいるけれど、自分の死を目撃した人はいない。では反対に、生とは何か。生きるとはどういうことか。この世に生をうけるという言い方はあるが、では生まれる前は「死」だったのか。「哲学をきわめるとは死ぬことを学ぶこと」というモンテーニュの言葉もある。 そのように、考えれば考えるほど本質的になり、抽象的になり、観念的になる。形而上学的になる。 小林秀雄は『私の人生観』において、仏教もだんだんと観念的になり、神と宇宙、神と自

自分にとらわれず、本質を観る

小林秀雄は『私の人生観』において「諸行無常」についての考えをひと通り語ったのち、あらため…

既視の海
1年前
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おごれる人も久しからず、おごらざる人も久しからず

話を『私の人生観』における「諸行無常」に戻そう。 小林秀雄は、「諸行無常」という言葉は誤…

既視の海
1年前
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ふたつの『平家物語』

小林秀雄には1948(昭和23)年の『私の人生観』をはさんだ、二つの『平家物語』がある。戦火が…

既視の海
1年前
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「諸行無常」に哀調なんてない

1942(昭和17)年の『西行』で小林秀雄は、50以上もの歌を引いて批評した。それに対して『私の…

既視の海
1年前
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西行は「空」を詠む

歌僧の西行は、若かりし頃の明恵に会い、みずからの歌論を説く。花や郭公、月、雪など、興を覚…

既視の海
1年前
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西行が明恵に語る歌論

太平洋戦争が深まる1942(昭和17)年に、小林秀雄は『当麻』や『平家物語』など日本の古典文学…

既視の海
1年前
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雪舟から西行へ

『私の人生観』は、講演録に後から加筆した「講演文学」とも言える小林秀雄の代表作だ。「観」すなわち「観る」という言葉を起点に、まるで連想ゲームのように話題や知識が連なり、新しい視点やこれまでに考えることのなかった発想が作品の魅力である。 小林秀雄はもともと講演嫌いを公言しているが、最低限の準備をして臨んでいる。とはいえ、一から十まで新しい話題で揃えるということではなく、これまで作品として発表したことに触れたり、また今後の作品につながる試論としたりしていたようだ。 室町時代の