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自分にとらわれず、本質を観る

小林秀雄は『私の人生観』において「諸行無常」についての考えをひと通り語ったのち、あらためて仏教思想そのものについて思惟を深める。

釈迦は、菩提樹のしたで縁起法というものについて悟る処があったと言われている。

『私の人生観』

釈迦(釈尊)が菩提樹の下で悟った「縁起」とは、生きている限りは決してのがれることのできない苦悩は「結果」であり、その「原因」は自分や物事に固執・執着することにあるという考えだ。

すべての存在や現象には実体がない。それらは要素の集合体であり、すべては連続性や関係性のなかに存在している。いろいろな要素が結びつけば存在や現象が形作られるが、結びつきがほどけたり、また別の形になったりと、刻々と変化し続ける。したがって、すべての実体や存在は「空」である。

そこで釈迦は苦しみの「原因」である自分への愛着を手放せばいいと考えた。自分への愛着が深ければ、苦しみも深い。愛着を消し去れば、苦悩も消し去ることが出来る。自分というものにも執着せず、自分から見た自分以外のものにも執着しない。

一切は空である。(中略)かような場所から、釈迦はどうして立ち上る事が出来たか。さような空を観る事によって、体験する事によって、立ち上った。

『私の人生観』

そのように、自分というものにとらわれず、自分の見方による自分以外のものにもとらわれず、本質を観る道をを仏教では「智慧」という。仏教では、もう一つ「知恵」があるが、それは世間をわたるすべであり、知識、教養、学問といってもいいだろう。

それで『私の人生観』の本文においては、次の段落の書き出しが、「釈迦の哲学的智慧は…」となっている。決して「知恵」ではない。

(つづく)

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