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西行は「空」を詠む

歌僧の西行は、若かりし頃の明恵に会い、みずからの歌論を説く。花や郭公、月、雪など、興を覚えるものすべてが虚妄だ。だから花を詠んでも実の花とは思わないし、月を詠んでも月とは思わない。すべては仮象である。しかし、詠んだ歌はすべて真実となる。

虚妄を詠みながらも、詠んだものは真実であると西行は言う。これはいったい、どういうことだろう。そのためには、仏教の「くう」の思想を知らなくてはならない。

あまりにも有名なお経に、『般若心経』がある。いまや東京から京都に修学旅行へ出かける中学生も、お寺で『般若心経』を写経体験してくるほどだ。そんな『般若心経』には、これもよく知られている、「空」の思想の要点ともいえる一節がある。「色即是空、空即是色」のことだ。

すべての存在や現象というものは、すべて実体がない(色即是空)。そして、すべて実体がないことが、そのまま存在や現象なのである(空即是色)という意味だ。

さらに「空」の思想をかみ砕こう。ただし、専門的な理解ではなく、小林秀雄の一読者としての理解を目指す。

仏教では、すべての存在や現象には実体がないと考える。これが「無我」だ。それらは要素の集合体であり、すべては連続性や関係性のなかに存在している。お互いに依存せず存在しているものはない。これが「縁起」。いろいろな要素が結びつけば存在や現象が形作られるが、結びつきがほどけたり、また別の形になったりと、刻々と変化し続ける。これが「無常」。したがって、すべての実体や存在は「空」、くだいていえば「空っぽ」なのである。

西行はいう。花や郭公、月、雪など、感興を抱いたものはすべて実体はない。だから花を詠んでも実体のある花とは考えず、月を詠んでも実際の月ではない。すべて「空」である。般若心経でいえば、色即是空。

それに対し、「空」だと分かったうえで花や郭公、月、雪で彩るならば、それが実体となり、真実といえる。これは般若心経でいう、空即是色だ。

仏教では、人は実体や存在に執着して生きていて、その執着が苦悩を生むと考える。なるほど、当時の歌人も、どのように詠むか、またはどのように評価されるかに心を砕いていた。それに対して西行は、ちょっと違う。「自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異なっている」と明恵に語っているように、何も求めず、何も残そうともせず詠んでいる。すべての実体は「空」であるならば、苦悩を滅することができるからだ。

平安末期から鎌倉初期において、諸行無常や「空」の思想を詠む歌人はたくさんいただろうが、「空」を観ずる力量において、西行は抜きんでていると小林秀雄は評価する。「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、種々ノ風情ヲ色ドルト云ヘドモ更ニ証跡ナシ」という言葉に表われているように、無常だからこそ、歌を詠む。空即是色である。

百人一首にも含まれ、桜をはじめ四季折々の風情を詠んだ歌人として知られているが、小林秀雄にとって西行は、「空」を観る歌人だったのだ。

(つづく)

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