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おごれる人も久しからず、おごらざる人も久しからず

話を『私の人生観』における「諸行無常」に戻そう。

小林秀雄は、「諸行無常」という言葉は誤解されていて、「おごれる人も久しからず」つまり、おごり高ぶる人は決して長続きせず、「盛者必衰のことわりを示す」すなわち、いずれ必ず滅びるだろうという間違った解釈をされていると語る。

さらに、江戸城を築いた室町時代の武将である太田道灌が若い頃に、父親から「おごれる人も久しからず」とたしなめられたところ、「おごらざる人も久しからず」と返したという逸話を紹介して、説明する。

この逸話は、次の様な事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで浸透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無つねなしとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容うけいれる事はまことに難かしい事であり、そういう事を語っております。

『私の人生観』

仏教は、生まれること、老いること、病気になること、死ぬことという4つの苦、すなわち生きている限りは決してのがれることのできない苦悩について、その原因を探り、どのように解決するかを説いている。苦悩は「結果」であり、その「原因」は自分や物事に固執すること、つまり愛着や執着にある。そんな「原因」と「結果」の結びつきが「縁起」。そして、世の中のあらゆるものはそんな「原因」と「結果」で成り立っていると考えるのが「因果律」である。

たしかに、この世のものはすべて、絶え間なく変化し続けているという「諸行無常」や、あらゆる存在や現象には不滅で不変の実体はないという「諸法無我」という考え方は、「心なし」「全く心ない理法」つまり人間がどうすることもできない法則かもしれない。しかし、驕る心のある人が必ず滅するというのなら、心に驕りのない人であっても必ず滅する。人間がどうすることもできない法則だからこそ、人々はそれをなかなか受容れることができないのだという。

ただし、小林秀雄は「近代の科学は、そんなあいまいな解釈を許さない」と付け加えることを忘れない。人間は日常的な経験を科学的経験におきかえ、実験と観察によって「計量」し、科学は絶大なる発展を遂げた。それにより解明された「因果」も存在するだろう。その結果として「自然の世界と価値の世界との分離が現れた」と小林秀雄は指摘する。自然の世界、すなわち科学と、価値の世界、すなわち人間が自分で経験して感じ、考えたこととの分離である。

近代文明は、この分離によって進歩した事に間違いはないが、やがて私達は、この分離に悩まねばならぬ仕儀に立ち到った。現代の苦痛に満ちた文学や哲学は、明らかにその事を語っているのであります。

『私の人生観』

やはり「講演文学」である『信ずることと知ること』をはじめとして、小林秀雄は近代科学のあり方について語っていることも多い。たしかに科学は人間を進歩させた。しかし、我々が生きていくための知恵は、どれだけ進歩したのかと小林秀雄は問う。美は人を沈黙させると小林秀雄はいうが、小林秀雄が問う本質は、我々を沈黙させる。

(つづく)

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