湯豆腐と僕

おそらく毎週木曜日あたりに投稿します。

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最近の記事

「自立」とは何を意味するのか。

 今日は人生における大きな課題である、「自立」について考察していこうと思う。いつも通りこれは私の自論なので、反対意見などがあればコメントしていただきたい。  さて、皆さんは「自立」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。一般的に自立とは経済に親から金銭的な援助を受けずに生活することを指す言葉として定着している。実際、辞書を引いてみると、「他からの支配や援助を受けず、自分の力だけで物事を行うこと。」とある。なるほど、一般常識の「自立」と辞書的な「自立」はほぼほぼ合致していると言って

    • この世界には私以外の人間も存在するのか。

       以前私はこのような題材を扱った。「私たちが生きている世界は果たして同じ世界なのか。」というものだ。そして今回のテーマは「独我論」だ。独我論とはこの世界のは「この私」しか存在しておらず、私の目に映るものは全て私の思考が作ったものであるという議論だ。  果たしてこれは正しいと言えるのか。結論から言おう。私は独我論は間違っていると考える。確かに以前考察したように、私とあなたの世界が同じであることを完璧に証明することは難しいように思う。だが、もしこの世界に私しか存在しないならば数

      • 「幸せ」とは何だろう。

         「幸せ」とは何だろう。この問題は昔から続いていてかつ、長らく解決していない問題の一つだろう。その問題について僕も論じてみたいと思う。あくまで僕の考えなので、そこはご了承を。  まず、この問題について考えるにあたって私たちがいつ幸せだと感じるかについて考えてみよう。  例えば、恋人と一緒にいる時人はしばしば「幸せ」ということがある。あるいは、家族といる時母親が「幸せ」と言ったりする。はたまた、何か美味しいものを食べている時「幸せ」と言ったりする時もある。ここから推察できる

        • 怒りについての考察

           私は普段から様々なことを考えるのが好きだ。そしてその中で今回は、「怒り」について考えてみたい。先に結論を言おう。私は「怒り」は必要ない感情だと考えている。その理由は3つある。一つひとつ順を追って説明しよう。  私が「怒り」という感情は必要ないと考える理由の1つ目は怒りは自己中心性に基づく感情だと思うからだ。詳しく説明しよう。  そもそも怒りは言うなれば言葉の暴力だ。激しい言葉によって相手を自分の意思に従わせようと試みる際に怒りは用いられる。確かにコミュニケーションを取るこ

        「自立」とは何を意味するのか。

          私たちが生きている世界は果たして同じ世界なのか。

           私はたまに思うことがある。私が見ている世界と他人が見ている世界は同じなのかということを。つまり私が見ている色や物の形、人の顔、はたまた言葉による対象の性質や状態などは果たして他人が言う物と一致しているのかということだ。  これに対する反論は例えば次の様なものが考えられる。例えば信号について考えてみよう。信号は通常「赤・黄・青」の三色から構成されている。そして人はその三色が示す色によって進んで良いのか止まらなければならないのか判断する。ここで私が問題にしているのは、この三色

          私たちが生きている世界は果たして同じ世界なのか。

          私たちは真に「違い」を受け入れているのか。

           先日、私と同じくnoteに投稿をしている友人のポストを見て、考えさせられることがあった。それは「私たちは本当の意味で違い・多様性を受け入れているのか。」ということだ。  私たちは人間だ。すると当然色々なことを考える。その中には他者に対する偏見のようなものも含まれるだろう。しかしこの「偏見」というやつは多様性を阻害するのではないだろうか。多様性というのは何もLGBTQの様な性的マイノリティに限らず、障害を持った方々やさらに大きく捉えると自分とは違う他者の存在を認めるというこ

          私たちは真に「違い」を受け入れているのか。

          「勇気」の本質とは何か。

           あなたは勇気を持っているだろうか。自分では持っているつもりだろう。だが実際のところは私も含めて皆誰もが大した勇気を持っていないのでは無いだろうか。  一つこんな例を挙げてみよう。あなたは会社に勤めていて、毎日当然のように出社していたとしよう。するとある日、突然今勤めている会社が急激に魅力のないものに思えてきて逆にライバル会社にとてつもない魅力を感じ始めてきたとしたらどうだろう。あなたは今の会社を辞めて転職するだろうか、はたまた今の会社で働き続けるだろうか。おそらく大半の人

          「勇気」の本質とは何か。

          心と体は分けて考えることができるか(心身二元論)

           古来より心と体は分けて考えられてきた。有名どころではデカルトの物心二元論などが挙げられる。だが、これは本当に正しいのだろうか。私は心と体は分けて考えることができないと思う。なぜならその二つは連動するからである。  例を挙げよう。仮にあなたが喫茶店でコーヒーを頼んでいたとしよう。その際にウェイターがコーヒーを持ってきたのだが、誤って溢してしまい、服にかかってしまった。この場合大抵の人なら怒鳴りつけるだろう。この時の思考プロセスとしては、ウェイターを屈服させるために心の中で無意

          心と体は分けて考えることができるか(心身二元論)