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怒りについての考察

 私は普段から様々なことを考えるのが好きだ。そしてその中で今回は、「怒り」について考えてみたい。先に結論を言おう。私は「怒り」は必要ない感情だと考えている。その理由は3つある。一つひとつ順を追って説明しよう。

 私が「怒り」という感情は必要ないと考える理由の1つ目は怒りは自己中心性に基づく感情だと思うからだ詳しく説明しよう
 そもそも怒りは言うなれば言葉の暴力だ。激しい言葉によって相手を自分の意思に従わせようと試みる際に怒りは用いられる。確かにコミュニケーションを取ることは時間がかかる。手っ取り早く相手に言うことを聞かせようと思うなら暴力を用いるのが合理的だろう。ただ現実に相手に暴力を振るうのは難しいからその代替として怒りを用いるのだ。だが、ここで考えて欲しい。なぜ手っ取り早く相手に自分の言うことを聞かせたいのか。それはやはり自己中心的な考えからだろう。冷静に考えれば相手は自分とは違う人間で自分とは考えも違う。それを無理に自分と同じようにすることは自己中心的以外何者でもない。

 2つ目の理由は怒りの持つ理不尽さだ。怒りは時として学校において教師から生徒に向けられたり、会社において上司から部下に向けられたりする。ただ、考えてみてほしい。例えば生徒や部下が何かしらの失敗を犯すのは、彼らが若い(幼いと言う意味ではない)からであり、彼らの経験不足や技術不足に原因の一旦がある。だとすれば彼らより長く生きている教師や上司は彼らより技能が上なのは仕方ないのではないか。教師や上司は当たり前だが生徒や部下より早く生まれているのだ。その時点で2世代間にギャップがあるのは仕方ないではないか。しかもこの差は永遠に埋まることがない。この理不尽さはあまりにも大きいのである。

 3つ目の理由は、怒りが行動する際の基準となることによって道徳律の低下が引き起こされるからだ。例えば、自動車を運転していて「一時停止」の標識や標示があった際、皆さんは止まるだろうか。実際一時停止をしているつもりでも、ちゃんと止まっている人は多くないのではないだろうか。その理由を考察してみよう。仮にあなたが一時停止無視違反で検挙され、警察官に強い言葉で注意されたとしよう。もちろん最初のうちは反省しているだろうが、時が経つと「どうせ警察いないだろうし止まらなくても良いや。」というマインドになっていくのではないだろうか。これは「怒り」という感情によるものである。
 そもそも「一時停止」はその場所で過去に事故や危険なことがあったために、また同じようなことを起こさないようにするための「戒め」として設置されているものである。
 だが、怒りというものはモラルの低下を招く。その例が先ほど言った、「どうせ警察いないだろうし止まらなくても良いや。」というマインドである。

 このように怒りについて考察してきた訳だが、最後に言いたいのはやはり皆さんにも怒りについて考えていただきたいということである。もし反論や別の見方についてご意見があればコメントでいただきたい。そしてあなたと一緒に考えてみたいと思う。(長くなって大変申し訳ない)

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