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非一般的読解試論 第七回「イメージ、パッチワーク、フィクション」

こんにちは、デレラです。

第七回 非一般的読解試論をお送りします。

非一般的読解試論では、「感想文」について考えています。

感想文とは何でしょうか。

観たもの、読んだもの、聞いたものから、「何か」を受け取り、

自分の中にある、これまでに受け取ってきた「何かたち」と混ぜ合わせて、

再構成して、文章として出力すること

ここでは、感想文をこんな風なものであるとして、進めましょう。

あとから使うので、一文の定式にしておきましょう。

「何かが、何かたちと合わさって、文章になること」


さて、感想についての考えを、もう少し具体的にしましょう。

例えば、映画を観たとき。

「この映画おもしろーい」という感想があったとしましょう。

これを先ほどの定式に当てはめると次のようになります。

いま観たばかりの映画から「何か」を受け取り、過去に観た映画から受け取った「何かたち」と合わせて、「おもしろーい」が出力された。


過去に受け取った「何かたち」は、もしかすると、映画だけではないかもしれません。

むしろ、個々人が、自分の身体で受け取ってきたもの全て。

映画、小説、漫画、歌、詩、景色、全て。全てが集められたパッチワーク。


そうして集められた「何かたち」は、ときどき「一貫した出力」をすることがあります。

感想が不思議と、「一つのイメージ」に収斂していくような。

またもや、何を小難しいことを言っているんだと思うかもしれませんが、そんなことはありません。

あなたもこんなことを言った覚えがあるのでは?

「この曲、このメロディ、スピッツっぽい!」

「この歌詞、椎名林檎らしいな!」

「この映像は、クリストファー・ノーラン監督の作品じゃないと観れない!」

そう、わたしたちの中に入ってくる「何かたち」を、作家の名前で語ることがあるでしょう。

作家の名のもとに、「何かたち」が凝縮する。

この「イメージの凝縮」によって、わたしは、作家や、監督、歌手、キャラクターを構成します。

つまり、受け取っている「何か」から、「一つのイメージ」が生成されるのです。

ここで注意しておきたいのは「このイメージ」は、わたしとあなたで異なる、ということ。

例えば、椎名林檎の曲を聞いて、わたしとあなたがお互いに「この曲って、椎名林檎っぽいよねー」と言い合っていたとしても、じつは、全く違うイメージをお互いに持っていることがあります。

なぜ違ってくるのでしょうか。

わたしには、わたしとあなたでは、身体にため込んだ「何かたち」の内容が異なっているからなのだ、と思えてなりません。

これまでの体験が異なるために、「出力」が似ているけど異なる。


少し飛躍すれば、このイメージは「仮構」なのです。

つまり、フィクション。

これまでの「何かたち」によって構成されるフィクション。

仮構というのは、途中で変わりうるからです。

その時々の一貫性は仮のものにすぎない。

「こんなパターンの椎名林檎もあるのか!」と知ったとき、あなたのなかの「何かたち」は配置を変えて、これまでにない出力をすることでしょう。

配置によって、たまたま一貫した出力が成されているように感じる。

本当は、そんな一貫性なんて無いのかもしれない。

けれど、そういう風に感じる。

受け手の数だけ、フィクションがある。

受け手の数だけ、バラバラのイメージがある。


これを反転させたものが「学問」というものでしょう。

ただイメージを出力し合うのでは、それぞれのイメージがバラバラになってしまう。

だから、イメージを細かく「定義」していく。

そうすることで、みんなの共通イメージを形成する。

どんどん洗練させ、全く一つの真実だけがあるように見せかける。

偽装する。

つまり、学問もまたフィクションなのです。

しかし、たとえフィクションでも、みんなで共通ルールを作って、「イメージの振れ幅」を小さくすることで、「事実」を構成することができる。

それが学問というものでしょう。

わたしは学問を「所詮はフィクションだ」と馬鹿にしているわけではありません。

むしろ尊敬しています。

これまでに、数々の人間たちが、膨大な数の実験、膨大な数の議論、膨大な数の知識を生み出してきた。

これほどスリリングで大胆で強力な戦略は存在しない。

学問だけが、歴史を超えて「イメージ」をつないでいる。

わたしの個人の「イメージ」は、わたしの身体が終わってしまえば、それで終わり。

でも学問は違う。

歴史をつくり、身体を超えることができます。


少し話がそれてしまいました。

わたしは、感想文について考えています。

わたしの感想文。

つまり、感想文とは、わたしがこれまでに体験しため込んできた「何かたち」が構成する「一貫したイメージ」です。

このイメージはフィクションです。

そう、根拠はない。

根拠をたどっていけば、過去に見た作品、風景、小説、詩、などが寄せ集められてできたパッチワークにたどり着く。

わたしのユニークなパッチワーク。


わたしが構成する「一貫性」は、フィクションに過ぎない。

いままでにため込んできたパッチワークから出力されるフィクション。

感想文とは、「フィクション」を構築すること。


まるで、一貫したイメージがそこにあると、偽装すること。

そして、それを信じること。


フィクションを、「えーだってフィクションじゃん」と言い捨てるのはあまりにつまらない。


だから次回からは、フィクションを構築してみます。

わたしのフィクションを作るのです。

わたしは、学生時代からウォークマンを愛用しています。

好きなバンド、好きな音楽がたくさんあります。

そして好きな歌詞もあります。

次回は、わたしの好きなロックバンドの歌詞を解釈し、わたしのフィクションを構築してみようと思います。

ここまで読んでくれてありがとうございました。

なんだか、今回は、ゆるーい感じで、おわります。

では、また次回。

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