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非一般的読解試論「感想空間について」

わたしは「感想を抱く」ということに固執しています。

感想を抱くということは、どういうことなのか。

感想とは何か。

感想についての問いを、ずっと考えています。

なぜ「感想」なのか。

わたしが良いと思ったものを、友人は良いと思わない。

この「感想の差異」に出会ったときの驚き、衝撃が、まだわたしのなかに残っているのです。

誰かに面白いと思われるコンテンツは、わたしが見ても面白いと思うし、わたしが面白いと思うコンテンツは、誰が見ても面白いと思うだろう、小さいとき(明確な記憶はありませんが小学生くらいのとき?)はそんな風に思っていました。

いまとなっては、当時は、誰かが面白いと言うものは、面白いと思わない方が間違っている、とさえ感じていたように思います。

しかし、中学、高校、大学と進んでいくと、自分と近しい友人たちとのあいだにおいても面白いと思えるものには差異があることに気がつきました(当然のことかもしれませんが、わたしにはショックな気づきでした)。

とても仲が良い、昔からの友人でも、面白いと思うものは違う。

感想が違う。

そのシンプルな事実に、わたしは好奇心はくすぐられ、関心を持ち、いつしか固執しておりました。

そうして、わたしは「感想」とは何か、「感想」がひとと違うのはなぜか、というようなことを考えるようになったのです。

わたしにとって、「感想」という言葉は、ほとんど「自我」だったり「アイデンティティ」だったり「自分の性格」のような、「ひとの本姓」として使われる言葉に置き換えられるほど、重要で、特権的な意味を持つようになりました。

「そのひとらしさ=ひとの本性」は「感想」に現れるのではないか。

感想をひも解くと、なぜそのような感想を抱くに至ったのか、そのひとが観てきた作品の遍歴や、生まれ育ち、仕事、習慣などが色濃く現れているのではないか。

そのひとが辿ってきた経路、軌跡、一本の線が浮き出るように思える。

「感想」とは、わたしがこれまで観てきたもの、聞いてきたもの、読んできたものと、それについて感じたことが、濁流のように粗く混ぜ合わさり、流れ出てきたもの。

わたしと作品は、一対一の関係なのではない。

わたし自身が、わたしの作品遍歴が、作品に対面している。

大袈裟でしょうか? 大袈裟かもしれません。

そんなに深く考えて作品を見ていない、ということもあります。

わたし自身も、どこまで作品を深く理解出来ているか分かりませんし、さーっと見流して、あー面白かったって思う映画などもあります。

「感想」にこだわりすぎる必要は、本来ありません。

深い感想もあれば、浅い感想もあって良い、そもそも感想なんて無くたって良い。

それを大前提に置いたうえで、わたしは「感想」について考えていきたい、そう思います。

前置きが長くなりました。

わたしは今回、「感想空間」という概念について考えたいと思います。

「感想空間」とは何か。

まずは、抽象的に説明してみようと思います。

感想空間とは、わたしが「作品」に直面したときに生じる「二重の空間」です。

まず第一に「物理的な空間」がある。

たとえば、わたしは映画館で映画を観ているとき、座席に座って、大きなスクリーンには何かが映し出されており、音響設備から声や音楽が聞こえるでしょう。

このように、わたしが「映画館に座っている」という「物理的な空間」があります。

そして次に「心的な空間」がある。

物理的な空間のなかで、映画で言われるセリフや映像に心が反応して泣いてしまったり、嬉しくなってしまったり、笑ったり、怒ったりするでしょう。

このように、映画を観ているときに生じる「心的な空間(あるいは感情の空間)」があります。

物理的な空間と、心的な空間が、二重に合わさった状態、これが「感想空間」です。

感想空間は、物理的空間と、心的な空間の二重性のなかで生じる。

さて、こんな抽象的な説明ではピンときません。

ですから、章を変えて、この「二重の空間=感想空間」について、具体例を出しながら考えてみましょう。

具体例は、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』です。


1.心的空間1 物語が蓄積する

わたしが何か作品を観ているとき、そこには感想空間がひろがっています。

感想空間とは、物理的な空間と、心的な空間が重なった二重の空間なのでした。

でも、空間が重なるってどうやって?

ジブリ映画の『千と千尋の神隠し』を具体例に説明させてください。


2020年6月に全国映画館で、ジブリ映画が再上映されました。

初めて『千と千尋の神隠し』を見たのは公開された2001年。

その頃のわたしは、11歳でした。

改めて映画館で観て、すごく心動かされる映画であると再確認しました。

特に、主人公の「千尋」が、元居た世界に帰るとき、ずっと握り合っていたボーイフレンドの「ハク」の手を放してしまうシーン。

画面には二人の手がアップで映し出されている。

千尋の手がさきに離れ、ハクの手だけが画面に残り、ゆっくりと手が下りていくシーンです。

この「二人が手を放すシーン」がとても感動的で、印象に残っています。


さて、わたしたちは感想空間について考えているのでした。

映画館で『千と千尋の神隠し』を観ているとき、二重の空間=感想空間は、どのようにひろがっているのでしょうか。

まずは、物理的な空間。

わたしは、ちょうど一番後ろの席で映画を観ていました。

大きなスクリーンに、およそ二時間の物語が展開します。

スクリーンに映し出されるのは、アニメーターたちが描いた「絵」です。

それがフィルムとなり、スクリーンに投射されています。

そして音、久石譲の音楽と、俳優たちの声の演技がスピーカーから流れています。

わたしはコーラを片手に観ていました。

言い換えると、映画館という「物理的な空間」で、わたしは映画を観ているのです。

これは映画館に限った話ではありません。

家で観ていても同じでしょう。

つまり、わたしは、「千尋の物語」を、あの物語の世界のなかに入って観ているのではなく、あくまで、映画館や、家など、こちら側の世界のなかで、物理的な空間で観ているのです。

わたしは物理的な空間で、スクリーンに映し出された「絵」を観ている。

そう考えてみれば、先ほどわたしが感動したと言った「二人が手を放すシーン」も、映し出された絵に過ぎない。

片方の手が、もう片方の手を、先に放した、ただそれだけの「絵」。

でも、ただそれだけの「絵」にもかかわらず、なぜあんなにも感動したのでしょうか。

なぜ「物理的な空間」に感動してしまうのか、この問いに対して、わたしは「心的な空間」があるからだ、と応えることができると思います。

二時間のあいだ席に座っていたわたしには、その物理的な「手が放れる絵」は、「ただの絵」ではありません。

席に座りながら、わたしはスクリーンに投影された絵を二時間、観続けていた。

投影される二時間の絵の連続は、千尋とハクの物語を紡いでいる。

手が放れるシーンに至るまでの、二人の物語が、ぐるっとまとめてその物理的な空間に重ね合わされている。

つまり、こう言えるのではないでしょうか、その物理的な絵には、わたしが観てきた物語が「心的な空間」として映し出されているのだ、と。

だからこそ、離れていってしまう千尋の手、そして、それを無理に追わないハクの手に、決意や勇気や愛情や信頼や寂しさのような感情を感じるのです。

わたしは、ただ「手が放れる絵」を観ているのではない、手が放れるまでの物語をそっくりそのままそのシーンに重ね合わせて観ているのです。

簡単に式で表現してみましょう。

感想空間(感動) = シーン(手が放れる絵) + 物語(手が放れるまでの物語)

さて、わたしたちは「感想空間」について考えているのでした。

感想空間は「物理的な空間」と「心的な空間」が重なり合った二重の空間です。

物理的な空間とは、二時間の映画を映画館で見ている空間であり、心的な空間とは、そこで描かれる物語がわたしに蓄積されて物理的な空間とは違うもう一つの層(レイヤー)として存在する空間です。

『千と千尋の神隠し』の「二人が手を放すシーン」は、物理的には「ただ手を放しているだけ」ですが、心的にはそれまでの物語が寄り集まったシーンでもある。

感想空間は、「物理的なシーン」と「そのシーンの物語」が重なっている二重の空間なのです。

この二重の空間で、わたしは感動し、感想を抱くのです。


しかしながら、ここで疑問が生じます。

たしかに、あるシーンに感動するのは、そのシーンに到達するまでの物語に感動するからである、というのは、間違っていないように感じられます。

①感動 = シーン + 物語

でも、映画を観ていて、物語には全く関係なく、ただ「このシーンが好きだ!」と感じることがあるでしょう。

②感動 = シーン + ?

この種の感動は、わたしがいま提出した「①感動 = シーン + 物語」では説明しきれません。

では、この「②感動 = シーン + ?」における「?」とは何でしょうか。


2.心的空間2 物事を想像する

わたしは、ある映画のシーンに感動するとき、そのシーンに至るまでの物語を、そのシーンに重ね合わせることで、感動している。

つまり、「感動 = シーン + 物語」なのでした。

しかし、物語抜きで、「ただこのシーンが好きだ」ということもある。

そのとき、式は変形して「感動 = シーン + ?」となっている。

この「?」には何が入るのでしょうか、あるいは、何も入らないのでしょうか?

『千と千尋の神隠し』には、この「?」について考えるのにうってつけのキャラクターがいたす。

それは、湯屋で薬湯の調合を担当している「釜爺(かまじい)」です。

釜爺は、主人公の千尋を影ながら応援してくれる好々爺なキャラクターです。

わたしは、映画序盤で、釜爺が、職人の手つきで薬箱から数種類の薬草を取り出し、薬を調合するシーンが好きです。

そのシーンは、なんとも「力強く怖い」のです。

先ほどの「感動 = シーン + 物語」に当てはめて考えてみると、「力強く怖い」という印象を受け取ったということは、釜爺の物語があるはずでしょう。

しかし、このシーンは、そもそも映画の序盤であり物語はまだ無く、また、物語全体を観ても釜爺が湯屋に来た経緯などは描かれていません。

釜爺の「力強い怖さ」の物語は、描かれていない、しかしシーンから「力強い怖さ」を感じる。

わたしは、このとき「感動 = シーン + ?」が関係していると思います。

「?」は、釜爺のシーンの例から分かるように、少なくとも「物語の内部」には存在しません。

ということは、「?」は「物語の外部」にある。

物語の外部、つまり、『千と千尋の神隠し』という映画の外側です。

どういうことか。

わたしは、釜爺を観たときに想像したのです。

宮崎駿監督の描く映画に登場する、他のキャラクターを。

・ナウシカのユパ
・ラピュタのハラ・モトロ(ドーラ一家の老整備士)
・魔女の宅急便のフクオ(おソノさんの旦那さん)
・紅の豚のピッコロ(フィオの祖父)
・もののけ姫のトキ

熟練の技と知恵を持ち、困難に直面する主人公を支える名わき役の姿を想像し、わたしはその想像を釜爺のシーンに重ねていたのです。

また、想像はとどまらず、宮崎駿監督の映画を越えていきます。

わたしは現実の職人の姿を想像します。

実際に工房で作業する職人たちは、寡黙に作品に向き合い、知恵と技術をふるいます。

その姿は、近寄り難く、強いオーラを発しています(普段は意外とおちゃめだったりするのですが)。

わたしは熟達した職人にある種の「力強い怖さ」を感じます。

その「力強い怖さ」を、想像し、釜爺のシーンに重ねているのです。


さて、わたしたちは、「感動 = シーン + ?」の「?」について考えているのでした。

「?」はどうやら物語の内部には描かれていません。

代わりに「?」は、わたしの「想像」を通じて「物語の外部」からやってくるのです。

つまり、「感動 = シーン + 想像」ということ。

シーンを観て、そのシーンに描かれていることの外部を想像する。

そして、その想像を、シーンに重ね合わせている。

そのときにもまた、二重の空間が拡がっているのです。


3.おわりに

わたしたちは「感想空間」について考えてきたのでした。

感想空間は、物理的な空間に、心的な空間が重ね合わさった二重の空間です。

この感想空間には、二つの在り方がありました。

一つは、蓄積した作品内部の物語を、シーンに重ね合わせることで生じること。

もう一つは、想像した作品外部の物事を、シーンに重ね合わせることで生じること。


わたしが作品に直面するときに生じる感想空間は、このような空間なのだと思います。


さて、今回はここまで。

わたしは、感想空間の二つの在り方を考えたわけですが、まだまだ足らないところがあります。

たとえば、そもそも「内部の物語」や「外部の物事」に関係なく「感動する」ということを説明出来ていません。

映画などの動画コンテンツには「動き」というものがあります。

「動き」は物語や物事に関係なく、感動を生み出します。

気持ちよい動き、怖い動き、変な動き、明滅するような動き、リズムに乗った動き。

あるいは、縦横無尽に飛び交うヒーローたちを捉えるカメラの動き、スポーツ選手を捉えるカメラの動き、動き広大な風景を映し出すカメラのゆっくりとした動き。

あるいは、踊ってみたなどのニコニコ動画、TikTokの数秒動画、パルクールなどGoProカメラを使ったYouTube動画。

モノの動き、それを捉えるカメラの動き。

動きは、内部の物語や、外部の物事に無関係に、感想空間の二重性を突き抜けて、わたしに「印象」を与えます。

動きについての感動は、また別の機会に考えてみたいと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

何か思いついたことがありましたらコメント下さい。

ではまた、次回。

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