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Text.2024.6/9~6/16

6/9 ICE

 今日。私は一心不乱に包丁を振り回していた。アルコールの酩酊感がなければ生きていけない体質なのでハイボールをよく作る。ブロックアイスをグラスから溢れるほどいれてキンキンに冷やしたやつだ。そうでないとはわかっているけれど、氷がたくさんあると速く冷えるような気がするからそれをやめられないでいる。まぁそれが好きだから、最寄りのドンキホーテでよくブロックアイスを買う。ただこの日はいつもと違った。運悪く冷凍庫に入れ忘れてしまったせいで、氷のつもりで買ったそれは1Lの水へと姿を変えて私の酩酊を阻害したのだ。それを廃棄するのはなんとなく負けた気がするから平らにして冷凍庫へ。袋と水はその時初めて我が家の冷凍庫に収まった。一枚の大きな氷解を砕き、また再び氷としての使命を全うさせんと手元の洋包丁を一心不乱に振り下ろし、砕き、酒と炭酸を注ぐ。翌朝、それは再びゆっくりと、水へとその姿を戻していた。
 唐突な話だが、それは私の破滅願望とよく似ている。水であるという本質はそのままに、凍ったりなどと状態を変え、水に戻り、凍り、水に戻りを繰り返す。私は悩みや現状の不満を一度極限まで溜めて爆発させたがる、という欲求を持っているのだが、それは悩みや不満といったものをまるで水のように捉えているからなのだと思う。安定した状態からバランスを崩しつつある問題に対し、適宜手を入れてなんとか体裁を保とうとするやり方は結果としてツギハギ状の脆いものになると考えている。一度完全に手の着けようがないほどに融解させてしまえば、あとは再び凍らせるだけなのだから簡単だ。途中ビショビショにはなるが、まぁ耐えられないほどではないことが大半だ。死にさえしなければ問題ない。一度全てを崩し、壊し、溶かしてしまってもいいのかもしれない。とも思う。
 グラスいっぱいだった氷が口から身を潜め、酒を薄めだしたせいであまり酔えない。素面ではとてもこんなことは言っていられないな。

6/12 矛先

 レジで怒鳴る人。わざと駅でぶつかってくる人。居酒屋で話しかけてきて、説教までする人。これらはた迷惑な人類も突然発生した厄災などではなく、その人なりの歴史があり、その愚行を働くまでの歴史があるのだから仕方がない。「だから可哀想だ」「仕方がない」と哀れむことで、日頃の最低賃金による労働を乗り切っている。
 私的には全く関係のない事業に従うことにより培われたストレスは「客」という立場を使って発散される。された人はそれはそれで客の立場に立ったとき、また他の従業員に向けて発散する。そしてまたされた人は客という立場を用いて、発散する。かように悪意は連鎖する。弾けに弾けた悪意の塊は最終的に消えるのか。おそらくだがそんなに都合がいい世界なら戦争など起こりようがないし、私が理不尽な神様に頭を垂れる必要もないはずだ。これは推測だが、最終的に悪意は地域の誰かに収束する。収束し、終息する。皆々様の最寄りにも1人はいるであろう狂人とされる者は生まれつき悪意を引き寄せやすく、壊されてしまうのだろう。人々が住む地域、市や町よりも小さい、非可視化されてはいるが実感として確実に存在するムラ単位で、極めて小規模に悪意が収まってくれればたった人間1人の凶暴化で済むのだ。まるで生け贄だ。その爆発に巻き込まれるのはもうどうしようもない。仕方がない。運がない。もしそれに巻き込まれたくないのであれば、まず「私」が善人になるしかない。向けられた悪意の刃の矛先を、振り下ろされる前に腕で受けて骨で止める。その危害を皆が持てば、そこにはユートピアが待ち受けているだろうと思う。だからまずはこれを読んでいるアナタから。おタバコは番号でお願いいたします。

6/16 メモ:揉め

 よく食べ、よく寝、よく遊び、よく揉める。ここ数日の私は超健康優良成人だ。が、最近はこのバランスが崩れ、超よく食べ、超よく揉めるといった具合だ。暴食と憤怒の二冠獲得せり。まぁ一旦暴食に関しては置いておこう。常に空腹が満たされているということ、それは血糖値の上昇により不足している睡眠を誘発し、カルシウム等の栄養素をキチンと確認して摂食していればゆくゆくは憤怒を鎮めるかもしれない。今日は餃子16ヶと1合の米が私の血となり、肉となり、骨となり、肉となった。
 さて憤怒についてだが、これは些細な痴話喧嘩、すれ違いを原因とする真に些細な口論に過ぎない。正面を切っては言えていないが、正直相手にも非はある。そう思う。無論私にもある。そしてここで言う"非"とは「ワタシは良くてもアナタは嫌。ワタシは嫌でもアナタは良い」ということだ。よくある話、価値観の違いだ。だがそれは互いの生き様でもあるからなるべく譲れない。これが悩みの種だった。そしてそれは芽を出し、幹を伸ばし、花を咲かし、たわわに実った。その実は運良く甘かった。今のところ毒性は無さそう。
「あなたの好きな音楽教えてよ」
 このたった一言が喧騒から甘美な果実を実らせた。自我を確立させるためにお互い張っていた壁を、相手は除いてこちらを覗いた。敵だと思っていた自分以外の森羅万象、そのうち彼女は少なくとも敵ではないと理解した。ならばこちらも同じようにするだけだった。
 価値観の相違を解決するということは、まるで合わない凹凸を合わせる作業であると考えていた。誤解していた。人は自ら移ろい、自ら変わりゆく。ピーマンを刻み、ハンバーグに混ぜずとも食べられるようになるように、昨日までの敵と友として盃を交わすこともできるようになるのだ。相性が合う、とは歯車が噛むようなイメージというよりは、初めは混ざりあっていた比重の違う液体が、ゆっくりと時間をかけて、曖昧な境目と共に各々に分離している状態を指すのだろうと思うに至った。まるでハチミツとメープルだ。そしてなんらかの環境の変化があればそれは部分的に混ざり合うし、完全に分離もする。人との相性とはそういったものなのだろう。完全な融和はないにせよ、曖昧な接着面で付かず離れずなのだ。


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