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メンターとなってくれた猫

2年前に亡くなった猫は、私のメンターでした。

結婚していた時にもらった猫で、当時は、娘の遊び相手程度の「ペット」という感覚でした。離婚後は賃貸住宅へ引っ越したために、元夫の暮らす家に残してきたのですが

何年かして元夫が引き取ってほしいというので、レンタカーを借りて30キロ離れた前の家に、猫を迎えに行きました。

ペット禁止の住まいなのに引き取り、当初は、どうしたものかと少し厄介に感じたものの、私は生き方の再構築に苦労していた時で、猫はそれをサポートしに来てくれたのでした。

再度、一緒に暮らしてみると、小さな動物の思いがけない大きな効果に、ふぁ~・・動物ってペットって、こんなにすごい役割を担っていたのか!と大変驚きました。

もちろん離婚する以前から、猫の存在はふたりの娘に多大な影響を与えていたのは間違いないですが、私にもようやくその、偉大さの恩恵が実感できました。

猫に生きることについて教えてもらえるというのは、どういうことでしょうか。

引き取った当時わたしは、「しなくちゃいけない」ことをこなす生活のための生き方から、「自分らしい生き方」への移行を難しく感じており「こうじゃない、なんか違う、でもどうしたらいいのか分からない」という悶々とした日々を送っていました。

「なんか、違う」と気づくまでには、病気をしたり怪我をしたり、強制的に生活を片手落ちにせざるをえない状況を経て、自分はこのままではいけないようだと自覚をしつつも、思うように変わることができないもどかしさが破裂しそうでした。

猫が、教えてくれます。

自然体で「生きる」とはこういうことだと、体現してくれるわけです。

そうかあ!こうするのかあ~猫先生ー!と猫の一挙手一投足が、素晴らしく輝かしく見えました。

私がどうも気乗りしなくて、今は動きたくない・・と心の中では感じているのに、その気持ちを抑圧して、役目を”頑張ろう”としているときに、しなやかな体つきで、私をやさしく押しとどめます。

あの、周辺の空気をリラクゼーション域に変化させるゴロゴロ音、猫の体から発せられる、やさしい振動を容赦なくさんさんと浴びせかけて

どうして動くの?

それをしてどうなるの?

誰が喜ぶの?だれか怒るの?

しないとどうなるの?

どう困るの?

そんなに重要?

今の気持ちより大切?

何のために生きてるの?

なにが大切なの?

・・・それより、撫でて。ニャー

文字言語ではないテレパシーです。問答したとして、先生には到底かないません。陥落です。問いを無視して”人間的役割”を遂行する気力は、私にはありません。

いっしょに寝よう、気持ちいいよ

猫なで声で誘われます!

喜怒哀楽でさえコントロールしていた私に、やさしくやさしく

怒っていい、休んでいい、欲しがって、安心して、とお手本を見せてくれました。自分の心が求めていることに従う訓練を、何度も何度も受けました。

あたたかいぬくもりや早い鼓動や、なめらかでしなやかな姿に、私は瞑想状態に落ちます。

私は頭が固いので、何十冊と本を読んでも行動ができないのです。だから生きる師匠がきてくれました。

引き取ってから、たった2年しか教えを乞うことはできませんでした。

先生が亡くなったあと、今まで自分には欠落していると思っていた感情を整理することができました。
先生からの、最後の教訓でした。

私は介護福祉職に長く携わっていますが、人が亡くなった時に「悲しみ」を感じたことはありません。

それは、友人が亡くなった時でも同じでした。

私のもつ観念として、生きることは「生老病死」を得る「苦」であり「死は、そこ(苦)からの解放」である人生のゴールで、生まれて「おめでとう」と同じく、死んでも「おめでとう」だというように、漠然とした生への失望があり、そういう価値観のもと、世間とのずれを常に感じていました。
自分は、親兄弟でも災害でも、誰の死にも悲しめないと感じていました。

ところが猫の死は、悲しかったのです。めっちゃ悲しかったのです。

これまで私が経験したすべての人の死に感じたことは、ねぎらいと感謝でしたが、猫の死には、ねぎらいと感謝と、そして悲しみがあったのです。

生きるものが「死んだこと」に対して、泣いたのは初めてでした。それは、猫が「苦」を背負っていない存在と感じたからだと思います。

大島シンスケというひとの、不思議な100物語という本のなかで、著者が猫となった時の描写が書かれていました。

猫になった時はとても満ち足りた気分で、なんの不足もなく、違和感のない完璧な世界だったそうです。
理由なく歩き、寝転ぶ。寝転ぼうと思ってはいないが、それが自然で理にかなっており、ただ、そうする。行為に理由がなく、ただ、そうなる。完璧に。あまりにも自然に。

それを読んだとき、疑いなく、なるほど、と納得できました。猫先生を見ていたから。

私は、死を悲しめないのではなく、生を悲しんでいたことが整理でき、猫先生には、生きることを悲みではなく、自然ととらえるといいよ。この世は生きるそのままに、完璧が連なっているだけだと、そう教えてもらいました。

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