名前がない恐怖

私はずっと名前を探していた。
大学に入ってから職業という名前を。

入る前はずっと小説家になりたかった。
その次はスピーチライター。
そしてその次はPRプランナー。

やりたいことは全部一緒だった。
大きな流れを作って世界を動かすこと。

だけどいまあげた全てがちょっとずつ自分のやりたいこと違った。
だから夢の肩書きを変えていった。

名前、というのは言葉の中でも強い力を持つ。
その人に変わりはないのに、強い肩書きを持った人は名刺を出すときに強そうになる。

映画「日日是好日」で主人公の女の子が就職活動に失敗した。フリーでライターをやって社会から肯定感もないまま生活を続けていた彼女はのちに職業として「フリーランス」という肩書きができ、安心して仕事ができるようになった。と作中のセリフで言っていた。

その女の子の気持ちがとても分かる気がした。

「とりあえず休学して海外行ったら楽しくて卒業してから海外行っちゃうかも」
私がそういうふうに高校の友達に言うと、遊びに行くのは社会人になってやめてからできるから新卒って肩書きは使った方がいいよ、とかなり心配された。

名前はだいじ。
名前とは何者であるか分からないそのままだとふわふわしてどっか飛んでいっちゃうような自分をかろうじて繋ぎ止めてくれるもの。

だけど持つ名前が多くなればなるほど繋ぎとめられて身動きがとれなくなってきてしまう。

自分の名前だけあれば十分だ。
どんなに立場が変わっても絶対に変わらない名前、それが自分の名前。

名前に漢字としての意味があるおかげで、ただの音で呼ぶ外国に比べて自分の存在を実感できる。

これから職業はボーダーレスになって肩書きを持つ人がたくさん増えてくるだろう。

そんな肩書きが飽和した時代の中で自分を自分たらしめてくれるのは、やっぱり私を私の名前で私として呼んでくれる人がいること。

物事にことばがついて始めて人から認識される。
名前がないのは存在していないのと一緒。

だからやりたい職業がないのが怖かった。

世間から存在してない存在。
社会から存在してない存在。

名前のない恐怖を言語化していくとその怖さに改めて気づかされる。

だけどちゃんとこの恐怖と向き合いたい。
恐怖に向き合った先に向き合わないと分からない世界が待っている。

名前がないというのはいま存在していない、かのように見えるだけ。

存在はしている、自分だけが分かっている、社会は気づいていない、もしくは気づかないふりをしているか。

大丈夫、大丈夫、ちゃんとそこにあるよ、と自分で自分を勇気づけながら一歩ずつ歩く勇気を持ちたい。

その勇気が持てたら、今度はその暗闇の世界を自分の嗅覚を頼りに競歩くらいのスピードで、どんどん加速させてボルトみたいな速さで走っていきたい。


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