見出し画像

アートは社会問題を顕在化させるっていうけどそれってなんなの?ということ(7/26)

アートのプロジェクトの陥りがちな罠として、周辺の環境と軋轢や問題点が起きたときに、それを「社会の課題を顕在化させた」といったような言葉にして、1つの成果のように捉えてしまうことがあります。それは確かにそうなのでしょうが、それってなんなの?それって本当に価値なの?というはなし

以下、だらだらと書きます。

作品を通じて「社会の課題を顕在化させた」。ここまではわかります。ただそれはプロジェクトとしての成果になるのか?と言われると、少し自信がなくなります。

それは本当に「その出来事がきっかけとなって顕在化したのでしょうか?」ずっと課題になっているものを、プロジェクトを通じてアートのステージに持ってきただけじゃない?とか。あとは、プロジェクトとして「顕在化したことで満足していないか?」とか。

これらのことは、アートプロジェクトを評価する際の注意点として言われていますし、もちろん、僕のプロジェクトも同じような課題を抱えることもあったりしますが

例えば、上記のような観点が、プロジェクトの反省点を飲み込むことの妨げたりしてませんか?「問題の顕在化」に満足して解決に向かわない場合とか。あと、”結果的に問題が顕在化した”のであって、そもそもの事業の目的は別にあって、それは達成されてなかったりしませんか?そもそも事業目的を設定していなかったりする場合については……もう、ね

さらにもう一つ踏み込んでみて、なぜアートの文脈で、問題の顕在化が成果であるかのように語られるかというと、

1つの理由は、地域でやっているアートプロジェクトが、コミュニティーアート、関係性の美学といった、関係性を前提にした評価軸を内包しているからでしょう。そこで何かの”関係性”が発生した場合に、それらのひとつひとつが評価として捉えることができてしまう。そこで起きた関係性の質についてはあまり言及されずに、アートと地域の中で何かが起こった事に価値を見出してしまうと言う評価軸があるからじゃないですかね?これは藤田氏が書いた地域アートや、関係性と敵対性の美学の際に少し触れられていたような気がするけれど、めんどくさいので調べていません。(誰か読んでみてください。もしかしたら書いてないかも)

https://www.10plus1.jp/monthly/2014/11/issue-02.php

アートプロジェクトをしているとたまに見る「アーティストが社会へ積極的に介入する試み」という言葉。わりと定型文のように使われているこの言葉。

しかし、アートもこの社会の出来事の一つです。そして、いろいろな場所でアートの取り組みは続けられています。まだまだ理解度が低い場所も多いですが、ひと昔に比べてアートを楽しむ人は増えているように思います。インターネットで多くの情報に触れられるようになったことで、さらにその傾向は加速していくと思います。(いや、加速して欲しい!)。

また、「地域に積極的に介入した」という評価はアートの世界で機能する価値ですが、社会への介入量が増えたからといってそのアートの価値が上がるわけではないです。なので、アートが社会に普及していくと、自ずとそれは価値の判断の対象から外れていくことになると思います。そうして、何か別のものがアートの成果として求められてくると思っています。


地域への介入

あと、別の理由として考えられるのは、そもそもアートプロジェクトと言うもの自体が作品の発表が目的であって、その先に何らかの成果を取ると言うことを考えていない(もしくはそれを良い事と思わない)人たちというのも一定数いるかもしれませんね。これは、制作する側の人間がプロジェクトを実施すると、比較的起こりやすいかなと言うふうに思います。

実際、私が関わっている福島県のプロジェクトでも「アートが地域に積極的に介入した」ということがもはや価値として機能していない気がしています。しかし、まだまだ価値観の移行期だと思うので、現状では「アートが地域に積極的に介入した」そして「費用対効果が高まった」という両方の価値を内包しておけばいいのかな?なんて考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?