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送り神

「汗」を「乳酸の薔薇」と——彼は記した。

そのとき彼の脚の傍らで、日射に倦んだ椅子の猫足が丸まり佇んでいたのを覚えている。黒い制服の裾の裏側から、みずみずしい脚がちらついて見えた。後刻の苛酷な熱をはじいて産毛は麦色に熟し、その根元は華奢ではあったが、それでも躍り上がらんばかりの野太い生命の凝縮を犇々と伝えてくる、錦鯉の脚であった。

彼を知ったのは四年前だった。彼の母親が、彼を私のもとに連れてきた。母親は酷く羸れ、精気の無い頭髪が荻のように項垂れ、大気の毒牙に晒されていた。

「この子、むかしてんかんに罹って……」

母親の口数は少なく、その言葉は診療録(カルテ)以上の情報を含んではいなかった。母親は常日頃から息子と接することを避けていた。母親のたどたどしい説明に、息子は椅子に座ったまま足をばたつかせ、放心しているような、見透かしているような、天真と曖昧の狭間に佇んで、診療室の奥に置かれていた鋼琴(グラン・ピヤノ)をみつめていた。

彼は六歳の頃に罹患した原因不明のてんかんが契機となって発語に障害が生じてしまったらしい。「運動障害性構音障害」、診療録(カルテ)に記された語を、私は眼前の少年に重ね合わせた。硬直した医学の概念を撥ね退けるかのように、黄金の風光に浸りながら、彼は椅子に凭れていた。夾雑物のない泰然とした気色は、ただ鏡のように私の眼差しを跳ね返し、奥底の衝迫を照りつけた。アサ神族の長、閟宮(アスガルト)の主神の幼年を思い起こさせるその風格に、私はひそかに戦慄(おのの)いていた。

彼はあまり話したがらなかった。忿怒も怨嗟もためこまないかわりに、激しい羞恥が彼の人格の螺旋を建てあげていた。治療が始まっても、それはなかなか変わらなかった。声なき巌稜たちにしばしば沈黙が打ち寄せた。ひとまず私は対話を止めピアノを弾くことにした。彼の局束をほぐすにはドビュッシーの『映像(イマージュ)』群が適当と判断し、私は鋼琴のまえにすわった。『運動(ムヴマン)』にはじまり、『葉ずえを渡る鐘』、『荒れた寺にかかる月』、『金色の魚』といった旋律の游禽(みずどり)は、黙し横たう紺碧の巨体を飛び越え彼のもとに届いた。波のようにゆれ、息吹とともに膚理(はだえ)は、砕けた水面のように燦めきを放ち、欣び躍っていた。

——一筋の官能の稲妻——

恍惚境に近い表情を浮かべ、妖僮は音を賞玩している。その姿に、てんかんが再発しはしないかとも尠からず恐れたものの、そんなことは途方もない慰撫にすぐさま覆い尽くしてしまった。記憶の深海から蘇る『海辺の墓地(ル・シミティエール・マラン)』の情景。この音の海原に、静寂に似た擾乱から、熱情の蜃気楼とともに立ちあがる蛟螭がたしかに存在した。

「演奏家はたんなる技術者であり、作曲家だけが藝術家を名乗るに値する」

青臭い殴り書きによる殴打。詩神に心を奠羞とした者の末路。

 畢竟私に作曲の才能などなかった。私は演奏者の道を拒んだ。後悔と満足は氷炭のように相克し、私を咎めだてする。けれども、人とのかかわりそのものが藝術となることを、私は当時予感したし、現在もそう確信している。失意のなかボランティアで参加した院内コンサートで、音楽の力をほんとうの意味で膚受したときから、言葉と音楽の幸福な一致——これを「言霊」と呼ぶのだろう——に、私は誘惑された。患者の失われたことばに翼を授けること、これ以上に崇高な使命を私は知らない。なぜならそれは、命を取り戻すことであるから。

 

彼は紙の上で饒舌なほど喋った。音楽がそれに拍車をかけた。彼には奇特な言語の才能があった。それを知ったとき、私は彼を「詩神(ブラギ)」と呼ぶことにした。原始の詩人、オーディンの息子である詩神の名。彼はそれをいたく気に入ってくれた。「生まれ変わった気がする」と、彼は書いて見せてくれた。彼にボルヘスを隠しておくのは罪であった。随筆『kenning』が、彼の心に留まったらしかった。あるとき自分なりに考えた「薔薇」のケニングを、彼は嬉々として披露してくれた。

火炎の垂迹
紅の雷火
憂鬱の心臓

それはケニングと云うには、あまりにも洗練され過ぎていた。紙上に爛れたかけた風雅がそこはかとなく香っていた。反応を伺う彼の唇が、金色の雫のように艶めいていた——私は思わず、それを啜った。

股座に、痛いほど愛が押し寄せていた。

…………

言語訓練は順調に進んでいた。舌はほどけ、絳脣は不器用ながら音を震わせるようになった。彼は無邪気に笑っていたが、その笑いはどこか、今までなかった生々しさをまとうようになっていた。私は何かを予感し恐れた。愛が私を大蛇(ピュトン)の寝床に駆り立てた。……

「彼を愛している」——と、詩神は書いた。

同じ学校のバスケットボール部に所属する、車椅子の男子学生に彼は恋をした。 

昏い感情が朝焼けに感極まった潮騒のように唸り、込み上げてくるのを感じた。私は焼き鏝を押すように彼に接吻し、診察台に押し倒した。意外にも彼は抵抗しなかった。薄暗い夕暮れの焌が、診察台のうえを真っ黒に焦がしていた。詩神(ブラギ)の虹彩がその邪悪な斜陽を吸いとって、黄金よりも深く、重く、艶めかしく光を湛えていた。彼は寝返りを打って、私に背を向けた。私はその頭皮に鼻を押し当て、甘酸っぱい青春の薫りを、狂おしいほどに堪能した。途絶えた官能が、再びなんなんと滾った。そんな私の生理を見透かすように、

「これっきり、だ、だから、ね、先生」

変声さなかの不安定な音の弾みが、予言者じみた異様な威厳を醸した。

「こっちを向いて。顔を見せて」

どうしようもなく震え始めた指で、彼の寝返りを促した。こちらを向いた彼の眼には、まばゆいばかりの幻日が円環をなしていた。

 「大蛇(ピュトン)への接吻」

 詩神は自分の行為をそう表した。彼と情人とは愛し合っているようだった。情人の分泌する汗——エクリン腺、アポクリン腺、皮脂腺、それから常在菌らの錯乱さえ、彼の手にかかれば「乳酸の薔薇」になった。彼の小躍りするような筆運びと楽しげな気色から、彼らの媾合のさまが肉芽のように吹きだし、激しい嫌悪に襲われた。そんな私の様子をみて満足したかのように、

「じゃ、あ、ね」

と書置きのように笑顔を残して、颯爽と彼は部屋から立ち去った。もう二度とここに来ることもないだろう。そう思ったとたんに——おもわず私は安堵した。しかし直ぐに、

「蛇の寝床で、青春は……」

詩の胚が、神経叢の揺り籠で血を通わせ、脈打ち、胎動しているのを感じた。競り上がってくる生命の躍動に、どういうわけか怖気立ちながら、呼び寄せられるように鋼琴の前に座った。鍵盤が口々に『黄金魚(ポワソン・ドール)』を弾けと急かしてくる。唯々諾々と、私はそれに従った。

 分散する和音、逸音を帯びた付加和音に、飛び乗ってくる倚音の修飾。どうしようもなく踊り跳ねる、この真っ黒な魂が、演奏の波浪にかこつけて騒ぎ始める……。

 

蛇の寝床で、青春は黒ずみ
糜爛することを祈っていたのに
詩の翼が命の発露を幻日に変えた
ああ、無邪気な太陽神(アポロン)、
私はさながら、大蛇のように
大地の裂け目から——呪い、祈ろう
詩の前途と、浜辺に海松布の留まることを

徒爾が心身を覆った。私はよろめきつつ立ち上がった。残暑が体を容赦なく絞っていた。私は全裸になると診察台に横たわり、屹立する生理の蛇を官能の惰性が促すまましごきつづけた。

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