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『教科書にない日本の歴史〜平和を望み続けた日本〜』

こんにちは^^

皆さんは学生時代、歴史は好きでしたか?と言っても勉強は好きでも嫌いでもやってきたと思います。その中でも歴史というのは皆さんにとってどのようなイメージでしたか?私は年代とか人の名前とか出来事の名称とかを暗記する科目のイメージです。

そのため歴史は嫌いでしたが、今一度歴史の勉強をしてみるとおもしろすぎることがわかりました。なぜなら、ただただ暗記していた時とは違い、何故その出来事が起きたのか?その歴史がどうつながるのか?を勉強したからです。

できるだけ短くまとめますので、読んでいただけたら幸いです。

※基礎的な部分などは端折ってあります。


今回はワシントン会議開催後の日本についてお話します。

前回までの記事を読んでいただくとより理解できると思います

|ワシントン会議(1922年)

この会議で決められた内容は次の2つです。

①建造中の艦船はすべて廃艦

②米・英・日の戦艦の総排水量を、米5・英5・日3とする

何故にほんだけ総排水量が少ないかというと、当時日英同盟を組んでいたため、日英であわせて10で米が5と、不平等だったからです。

しかしワシントン会議後に日英同盟が破棄され、英米同盟が組まれました

それにより今度は日本が圧倒的に不利な状況になると同時に日本は弱国となりました。

|弱国になった日本の悲惨なその後

まずはロシアのニコラエフスクで尼港事件が起き、日本の行使が殺されました。

これに対し日本は何も反撃をしなかったことにより世界から、「日本は弱国の上、反撃をしてこない国」という印象が植えつきました。

というのも、他の国は国際問題が起こると犯人だけではなく町ごと復讐されていたのです。

次に起きたのが通州事件です。これは日本人居留民の約220人が惨殺された事件です。

この事件を見ていえることが、日本はなめられていたということです。

この事件に対しての日本の対応が驚きです。中国に賠償請求することもなく報復をすることもなく、これまでの中国の要求をすべて受け入れるから戦争はしないといったのです。

そして日本は、一生懸命働いて景気を取り戻す努力をしていました。しかし世界のお金持ちは日本人が必死に働くのをいいことに、そこからお金を巻き上げていきました。

そして日本に降りかかる惨事はまだ続きました。

中国の要求にサインをしに行く途中に大山中尉惨殺事件が起きました。これは、車で移動中の大山中尉が銃で撃たれ、瀕死のところを車から引きずり出され首を斬られた事件です。

その次は上海で事件が起きました。

上海に3万人の日本居留民がいたのですが、日本人殺害が相次いだため日本人を帰国させようとしました。この3万人の日本人を2000人の海軍陸軍隊が援護していました。しかしそこに中国国民党軍5万人が襲撃をしてきたのです。

何故襲撃をしてきたかというと、裏で米英が軍事援助をしていたことが原因と言われています。

これに対し日本は通州事件のようなことはあってはならないと、2000人の援軍を送り、4000人対5万人の戦いに日本は勝利しました。

こんなことをされた日本でしたが、日本側はそれでも戦争はしたくないと言い続けました。

しかしその後も日本人に危機が起こることが多々あり、日本はついに戦争をすることを決断しました。そこで起こったのが支那事変です。

この戦いは英米の中国への支援と、日本のこの戦いに勝って世界を平和にしたいという思いにより長期戦になりました。

そんな時起きたのが第二次世界大戦です。

|第二次世界大戦開戦

ドイツ軍がポーランドに進行したのをきっかけにこの戦争は起きました。

ちなみに、第二次世界大戦は昭和14年に開戦しましたが、太平洋戦争の開戦は昭和16年です。これは日本が2年間戦争を拒み続けたことを意味しています。

ではなぜ日本は参戦せざるを得なかったのでしょうか?

|世界大戦への日本参戦の理由

日本は当時日独伊三国同盟を組んでいました。アメリカはこれが気に食わず、日本への石油輸出を制限しました。

石油輸出の制限はイコール海軍力の低下を意味します。

そこで日本はオランダに石油を求めますが拒否されます。なぜなら、当時ABCD包囲網というものが敷かれて、日本は敵国に囲まれていたからです。

そもそも日本がこうも海外から攻撃される理由ですが、日本は世界に人種の平等を提唱しているからです。(過去の記事で詳しく説明されています)

これにより日本は、資源もなく産業もやばい状況になり、戦争への参戦を決めました。

|参戦後の日本の動き

まずはフィリピンの米軍を壊滅させました。

当時フィリピンの米軍の総括をしていたのはマッカーサーです。マッカーサーは兵を残したままオーストラリアへ脱出して助かっています。

その後フィリピンの米軍を捕虜にした日本兵は収容所まで捕虜を移動させました。ここでバターン死の行進が起こったと言われています。バターン死の行進とは日本人が米軍に乱暴して多くの死者が出たと言われているものです。

しかしこれはアメリカの宣伝で、実際には100人の米兵に1人の日本兵の割合でついていて、10km進むのに1日もかけていたのです。こんなに時間がかかっていた理由は、途中で奇麗な海でみんなで海水浴をしていたからです。

また捕虜に対する待遇も国際法にのっとっていました。

|次々と敵地を勢圧

日本はその後も、マレーシア、シンガポール、インドネシアと、東南アジア諸国から植民地支配している国を一気に駆逐していきました。

そして日本は制圧していった国々に対して、支配することもなく日本の都合のいいように扱うこともありませんでした。

では日本は制圧した国に対して何をしたのか?

|制圧した国に日本は何をしたのか?

独立国家を営んでもらうために必要なものを日本は与えました。

ひとつは国家を作れるだけの行政機構、またその行政機構を維持できるだけの学力を身に付けられる場です。

本来制圧された国は制圧した国の植民地になるのが常識でしたが、日本は植民地にするのではなくこのように平和で自立できる国になってもらうために努めました

そしてその後、日本から直接様々な教えを受けた人たちが戦後、東南アジアのリーダーになっています。

|少し話をまとめます

世界に人種の平等を訴えたことが原因で日本は世界の敵国となりました。そして敵国から多くの悲惨なことをされ続けた日本でしたが、それでも平和を望み抵抗することはありませんでした。しかし、ついには日本存続の危機にまで追いやられ戦争へ参戦した日本。戦争をしているときも日本人の心は常に平和を願っていたことから、制圧した国々に対して独立し平和な国を創れるよう教養を与えていきました。

|その後

そして1943年に大東亜共同宣言を日本は提唱しました。内容は、皆が平和で対等に協力し合って経済発展をしていこうというものです。

このような発表をした日本は、正義のように見られるようになりました。ということは、逆に正義を倒そうとする日本の敵国は悪となるわけです。

そこでイギリス、アメリカ、中国がとった行動が、世界宣言(カイロ宣言)です。

世界宣言(カイロ宣言)の内容は、簡単に言うと世界秩序に逆らう国はやっつけようという内容です。つまり、英米中に逆らう国は世界の反逆者としてとらえますよという内容です。

|つづく・・・

お読みいただきありがとうございました。

次回は第二次世界大戦中に起きていた出来事と、戦後日本がGHQに何をされたのかお話していきます。

義務教育や高等教育で学ぶ歴史は、都合のいいように曲げられひねられてできたものがほとんどです。正し歴史を学び、日本も世界も愛し、先祖の思いに応えられる日本人でありましょう。

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