#05 【戦前|幼少時代】母は早朝から夜中まで忙しい
舞台
(福岡県)久留米
人物
主人公 :花山 三吉
家族構成:父、母、七人兄弟(五男二女)
三吉は四男坊
題名
草笛の記
物語
戦中 戦後 青春のおぼえがき
第一章 幼少時代
(一)大家族に育つ
(二)父母のこと
仕事ひとすじの父
父、良木への思いひとしお
大家族を支えた母 ★
自然に恵まれた母の実家
(三)雄大な筑後の山河
第一章 幼少時代
(二)父母のこと
大家族を支えた母
母(かすみ)は、早起きの父よりも、さらに早く夜明け前に起きた。
赤ん坊も入れるような、大きな飯を炊く釜と、味噌汁の鍋を、二つ続いた「かまど」に架けて、両方同時に薪を勢いよく燃やした。
三吉は「かまど」の前の土間にムシロを敷いて火の番をした。やがて弟や妹、甥や姪も起きてきて、一緒に座って他愛もない遊びに興じた。
油断していると火の粉が飛んできて、着物を焦がしたり火傷(やけど)をしたりした。それでも「かまど」の前は(とくに冬の間は)幼児たちの特等席であった。
母は、「かまど」と続きの炊事場で、忙しく食事の用意をした。炊事場は十坪ぐらいの広さがあった。床はコンクリートのたたきになっており、「かまど」の並びに特製の大きな「流し」がデンと座っていた。
その反対側は、壁一面が作り付けの棚になっていて、大小さまざまの釜や鍋、瀬戸もの類が、ところ狭しと並んでいた。その隅には「梅」や「らっきょう」を入れた「かめ」や、味噌がめの列があった。
炊事場の裏手に漬物小屋があって、「たかな」「やましお」「はくさい」「だいこん」などの漬物がいくつも樽漬けされていた。四季それぞれの野菜を、出入りの農家から直接仕入れて、母が丹精込めて作った漬物である。
漬物作りは主婦の年中行事で、母はタスキ掛けで、張りきって、野菜を洗って、干して、大きな幾つもの木樽に漬け込んでいった。子供たちも母の手伝いをして、小遣い銭を稼いだ。
食事をする「台所」は板張りで、十五・六人が一度に囲める「飯台」(はんだい)に、煮立った味噌汁を大鍋のまま持ってきて乗せた。御飯は大きな「おひつ」に入れて、鍋の横にならべ各自でお椀に盛った。
食事が始まると、もう賑やかだった。母は必ず隅の方に座って、おかずを盛りつけしたり、お茶を注いだりした。
母の仕事は絶える間が無かった。
父の十人兄弟の末っこの人たちと、三吉の長兄、次兄は年齢が重なって、学校も同学年だった。それに三兄や姉のぶんもあわせると、毎朝の弁当づくりも数が多くて一仕事であった。炊事、洗濯その他なんでも手作業の時代なので、母は夜中まで忙しかった。
農家出身の母は、家事の合間には、漬物小屋の後にある畑に、四季の野菜を欠かさず育てた。
西瓜、かぼちゃ、トマト、きゅうり、だいこん、さといも、玉ねぎ、そら豆、じゃが芋、それに落花生まで、作る量は多くはなかったが、野菜の種類は驚くほど多かった。
この畑の裏手を、幅十メートルほどの「筒川」が流れている。この川には鮒や鰻、泥鰌などの魚類がいて、夜に受け網を仕掛けると、翌朝には必ずたくさんの魚が、網の中で跳ねていた。大きな鰻が取れると、父が上手に蒲焼きにした。
筒川は月に何度か、水の色が変わって流れた。ずーっと上流に染めもの工場があったからで、染め物の色が川の色になった。ひとしきり赤や青色の水が流れると、また何時もの澄んだ流れになるのだった。幼児には色の変わる川が不思議であった。
この川岸に鶏とアヒルの小屋を置いて、それぞれ十羽ぐらいがいた。どちらも放し飼いで、あまり世話がいらなかった。勝手に卵を産み、上手に雛を育てた。
三吉たち子供は、鶏の卵をそっと取って、上下に小さな穴をあけてチュウチュウ吸うのが楽しみだった。
アヒルの卵は、母の料理の素材になった。それぞれの肉は、母の正月料理の「ガメ煮」に化けた。
続く
坂田世志高
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