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#02 【戦前|幼少時代】戦前の交通事情


舞台

(福岡県)久留米

人物

主人公 :花山 三吉
家族構成:父、母、七人兄弟(五男二女)
     三吉は四男坊

題名

草笛の記

物語

戦中 戦後 青春のおぼえがき


第一章 幼少時代

(一)大家族に育つ

祖父の死のショック
「くるまや」全盛時代 ★

(二)父母のこと

仕事ひとすじの父
父、良木への思いひとしお
大家族を支えた母
自然に恵まれた母の実家

(三)雄大な筑後の山河

長兄、ふるさとの四季を描く
故郷の象徴、高良山と筑後川




第一章 幼少時代

(ー)大家族に育つ


「くるまや」全盛時代


三吉は大家族で育った。

父の兄弟は十人で、そのうち八人が男で父が長男。もう嫁さんがいる人も居れば、子供がいる人もある。

三吉の兄弟は七人で五男二女。彼はその四男坊。

父の兄弟のうちには、分家して独立した人もいるが、数人の住み込みの者がいるので、絶えず十七、八人が同居していた。

通勤の人たちが、朝七時に出勤してくると、もう家いっぱいに人が居て、毎日が戦争のように騒がしく、忙しかった。


三吉の家を世間の人は「くるまや」と呼んだ。

当時(五十余年まえ)は、いまのように自動車がなかった。

二十一万石の城下町、久留米市の当時の人口は、一万五千世帯、八万人を擁していたが、自動車はまだ官公庁にボツボツあるぐらいで、一般的にはマッチ箱のような形の乗り合いバスが、市内をのんびりと走っていた。人びとの日常の乗り物は自転車であった。

とくにものを運搬する手段の「くるま」は、人馬のちらかを動力源にしているものがほとんどだった。

朝はやくから夜中まで、市内全体をガラガラ、ガタガタと「くるま」の通る音が絶えなかった。

三吉の家は、その人馬用の「くるま」を製造、販売する当時の花形産業を家業とし、この地方の業者の中では大手筋であった。

一口に「くるま」と言ってもいろいろあった。

郵便局の小荷物運搬車は、人力二輪車で、荷台の大きさに扉付きの大きい箱を作り、それをセットして、車体から車輪まで総てを赤く塗って仕上げられていた。箱の両側には「久留米郵便局小包」と、大きい筆記書体で黒ぐろと書かれていた。

国鉄駅の校内車輌は、規格どおり四個の自在車輪をとりつけた手押し車で、小回りよく動くのが一番の特長であった。またデッチという手押し二輪があった。


牛乳会社の牛乳配達車も人力二輪車で、扉付きの箱を明るい「みどり色」に塗って、白色の丸ゴヂ書体で「久留米ミルクプラント」と大きく書かれた字が新鮮な感じだった。

運送専門会社の、重量物用車輌は四輪馬車で、樫(かし)の木でがっちり作った。
車体の枠の上下を、厚みのある平鉄で巻き、それを一尺間隔に鉄環で締め付けた頑丈な作りであった。

農家用は人力二輪車と軽四輪牛馬車があった。
どこの農家にも牛や馬が飼われており、牛馬を利用した軽四輪車は農業の必需品であった。
そのほかに野菜農家に限った事ではないが、手軽な二輪車を、畑作業や野菜市場へ収穫物を出荷するために使用した。

農業関連品では、犂(すき)や馬鍬(まが)などの農機具も大量に製造して、五里四方ぐらいの農具店に卸した。工場にはいつも客がいて賑やかだった。


続く

坂田世志高


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