安定を考える
先月の電気代が来た。予想はしていたのだが、まじまじと見せつけられた現実。いつもの二倍もの請求だった。それもそのはずだ、寒いのが至極苦手な私はこの厳冬、一か月暖房と電気マットをフル稼働させていたのだ。
電気も無料ではない。そんな当たり前だけど自分のなかで見落とされていることを感じた。
ありがたいことに、まだ学生身分で親に電気代を払って貰っているので自分の負担ではない。しかしこれがいずれ自分の負担となるのだろう。そんなこれまた当たり前のことを感じているうちに「安定」という観念が自分のなかで芽生えてくるのを感じた。
よく、周りの大人や人々は「安定」というものを大そう良きものとして語る。それを私は今まで「安定なんて、革新的であることを阻害する鬱陶しいものだ。」なんて、思っていたのだが電気代という現実をみると人々が「安定」を大切にする気持ちも理解できる。
「安定」することで「生存」が確保されるのだ。電気代などは生活費、つまり生きるための最低限必要な費用。そして、「安定」によりそれが払えなくなる不安から解放される。安定とはある種の生存欲求だ。私は「安定」をこう捉えることで初めて周りの人々がなぜそんなに安定を言うのかを理解した。
しかし、自分にとってそんな「安定」が最善で、面白いかと言えば、違う。わくわくするのかといえば、違う。もちろん、生存するために「安定」を求める自分はいるだろう。それと裏腹の「不安定」のどう転がっていくのかわからない、スリルを求める自分もいる。自分の乏しい知的体力や創造性を駆使してなんとか冒険しようとする自分だ。そんな「安定」と「不安定」両方を求める自分がいるから、私は「安定が一番」と休日にゴロゴロテレビを眺めているような人にはなりたくない。「安定」という現実論をもとにスリルを求める冒険者としての自分に嘘をつきたくないからだ。かといって、「安定なんてくだらねえ。」なんてことも言いたくないし、言えない。自分の生存欲求にも嘘をつきたくないからだ。
恐らく、この生物としての生存欲求の「安定」には私は死ぬまで付き合うのだろう。自分が生きたいと考える限り。そのようななかで、今後自分に課された課題は安定とは裏腹な冒険者としての自分をどれだけ大切にできるかだ。どれだけ、わくわく感やスリルを求めることができるかだ。「生きる」なかでどう「生きるを楽しむか」なのだ。時には「安定」をいなさなければならないときもあるだろう。
「安定」という生存欲求。有無を言わさぬ現実論。こんなことに、疑問を持ち考えられるのは「安定」という現実があるからなのかもしれないという考え。
「不安定」という革新的でありたいという欲求。そこに待っているわくわく感やどう転がっていくのかわからないという楽しみ。
この二つを抱えながら、それをうまくコントロールと使い分けが出来るまで私はトライアンドエラーを繰り返しながら精一杯生きてみようと思う。「安定」と「不安定」を超越してやるのだ。
こんなことも「安定」しているだから言えるのかもしれないなあ・・・・
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