潜在的な差別心

大学に入ってから、いくらか海外から日本に来る留学生、そして海外から日本にくる同年代の人と知り合うようになった。

とりわけ仲が良いのは、中国人の男子留学生の子と後、タイ人の外国人実習生として介護現場で働いている子だ。彼らは日本語が流暢で、勉強熱心で様々な日本のことを僕に聞いていきて、自国のことも話してくれる。そして、彼らと話すのは本当に楽しいのだ。

しかし、ふと彼らと話していて感じる楽しさというものに疑念を抱くときがある。そのなかに自らの彼らに対する差別心が含まれていないかということを思うのである。

彼らと話していて感じる楽しさは話すのが楽しいという純粋な楽しさ、そして外国人の彼らに対して潜在的に感じている優位性や差別心から来る楽しさがあるのかもしれないのだ。彼らと話すときの僕は普段日本人と話すときより、明るくて、流暢になる。それは、日本人と外国人を差別していることに他ならないのではないか。そんな疑念をいだくのである。

また僕は彼らには、日本人には普段しないような心配もする。一見これもやさしさに見えて、どこか潜在的な彼らに対する差別心から来る優越的な施しという態度なのかもしれないと思うようことがある。罪悪感にもさいなまれる。

かといって、僕が日本人と同じように接すれば彼らと仲良くなれることはないのかもしれない。これは、平野啓一郎さんが提唱した『分人』ということで説明がつくのだが、僕が考えている問題は外国人の友達と接する分人を使うときにその分人を組み立てる要素や動機のなかに潜在的な差別心が含まれていないかということである。

これは、人生において外国人の人と接する機会が少ないことからくるある種の戸惑いなのかもしれない。さらに、話を外国人に限定しなくとも、自分が他者と接するときに何かしらの潜在的な差別心を持ってしまうことはあるような気がする。

そうしたときに考えてみると僕が感じている苦悩は外国人と接するときに限らず、他者と接する時全般に、つまり人間関係全般においてぶつかる苦悩ではないか。それが、慣れない外国人という慣れない他者との接触により自分に強い印象を与え、意識させたのではないかということを考えるのである。

誰しもが自分と違う他者に対して、潜在的な差別心をもっているのではないか。そして、人間関係においては相手に対する潜在的な差別心があることを前提に、それを打ち砕くのではなく、それを持っていることをいかに顕在化させないかということに主眼を置くべきではないか。そういう結論に至ったのである。

僕はタイ人の友達にラインを打つことにした。「日本の冬には慣れた?日本語の勉強は捗っている?」確かに、これは潜在的差別を伴っているかもしれないが、話したいのも、交流したいのも事実なのだ。

誰しもが潜在的な差別心をもっており、差別主義者である。要はそれを顕在化させるかさせないかなのである。

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