日本の国家安全保障90年代 2
こうして非自民連立政権は誕生した。
内閣総理大臣は「政治改革」の顔で、細川ガラシャの子孫、近衛文麿の孫という「政界のプリンス」として世論、マス・メディアにおいて人気の高かった細川護煕氏となった。側近の官房長官には新党さきがけ党首の武村正義氏が就任した。
細川政権は政治改革、特に選挙制度改革を目的に結集した連立政権であった。
連立政権与党第一党の社会党(議席数70)と野党第一党・自民党(議席数220、自民党223議席と自民党系無所属から加藤六月グループの一部などが当選直後に自民党から離党)の数の力に配慮した政権運営を強いられた細川政権は妥協を迫られた。
自民党の主張する小選挙区400議席、比例代表100議席の計500議席の案と、社会党の主張する小選挙区250議席、比例代表250議席の案が対立した。
細川政権は自民党、連立政権与党との協議で小選挙区300議席、比例代表200議席の計500議席という小選挙区比例代表並立制で妥協し、衆議院の選挙制度改革、政治改革は一応の決着がついた。
この時点で細川連立政権の存立理由はなくなっていた。その理由は、政治改革、選挙制度改革決着以外にこの細川連立政権の共通目標、共通政策はなかったあらである。
国連主導の国際貢献活動を目指し、自衛隊の海外派遣に積極的な新生党と、自衛隊を憲法違反とし、廃止したうえに、日米安全保障条約も破棄し、非武装中立を主張する社会党が連立政権内で主導権争いを行っていたからである。
国家の基本政策である安全保障政策において180度正反対の政党を抱え込む政権は明らかに野合であった。
しかし、細川首相は政権維持に奔走し、政権存在意義として安全保障、防衛政策に活路を見出し、左翼イデオロギーに基づく大幅な政策変更を思いついた。
細川首相は「これからは軍事という時代ではない」と常々言っていることが報道された。
細川首相は、ソ連の崩壊から自衛隊による防衛・軍事力による抑止そのものの意義が下がったと安易に考え、自衛隊の縮小、日米同盟の弱体化を考えていた。このことは後の細川の論文で(1998年のフォーリン・アフェアーズ誌)であきらかになる。
しかし、その考えは適切であったのか。ソ連は崩壊したが、不安定な状態は続いていた。中国が軍事費を増大させ、軍事力を大幅に増強し、北朝鮮のミサイル開発、核開発は進展し、特殊部隊・工作部隊の日本国内への浸透は継続されていた。
一方で、湾岸戦争における多国籍軍による強制的平和執行活動、カンボジアにおける国連平和維持活動など、国際秩序維持軍事作戦、国際貢献活動、国連による平和維持活動に対応する必要が生じてきていた。
細川政権は平成6年度(1994年)予算の一般歳出を前年度比伸び率2,3%増加としたが、防衛費の伸び率は、緊迫する東アジア情勢、日本に向けてのあからさまな軍事的示威活動の存在にもかかわらず0,855%増加におさえ、軍縮傾向政策を鮮明にした。
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