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過去は変えられる。記憶も変えられる。それはなぜ?と書く理由

「過去は変えられない。過去は変えられないけど未来は変えられるから行動するのだ」そんな考え方が広く知れ渡っている。私自身もそう思っていた。

昨日佐渡島さんと話した。私は最近noteをよく書いているんだけど、私の人生の転機となった核の出来事は書けていなくて、自分が書いていることなんて上っ面なんじゃないかという思いを拭えずにいて、どう書いたらいいのだろうかと相談したのだ。

佐渡島さんはこう言った。

「例えば夫婦間で全てさらけ出し合っている、と思っていても、お互いがトイレに入っているところを見合ったりはしないでしょ?それと同じように、『この出来事は自分の核となった』って出来事そのものを書く必要は無くて、それによって何を伝えたいか、なんだよね。そもそもなんで書きたいのか、ともなってくる。

それに『過去の自分はこうだった』って思いって、その時にそうした言葉しか知らなかったから、その時はその言葉と感情でしか表せなかったのかもしれないけど、当時の自分よりも表現や語彙や感情の幅が増えた今だったら、違う言葉や感情で表してたかもしれないじゃん。『過去は変えられない』ってよく言うけど、『記憶』っていい加減なものだと思うんだよね。『過去』は自分の『記憶』であるわけで。

出来事自体は変わらないけど、その出来事が同じように違う人に起こったとしても、全然平気と感じる人もいれば、もうダメだ…ってなる人もいて。あと、少しでも体力的なコンディションが違ったりしたら全く違う感情を抱いていたかもしれないし。だから、出来事そのものが大切なんじゃなくて、どうしてそれを書きたいのか、を考えればいいと思うよ!」

(佐渡島さんの言っていることを文字にするとドライ感あるかもしれないけど、実際に話していると全くドライな感じはしなくて、すごく楽しい会話なのだ。忙しい中本当にありがとうの思いでいっぱい!一緒に色々話をしてくれたゆききにも心から感謝!!)

話をふまえて、「どうして書きたいのか」を考えてみた。
苦しい思いをしていたから、今そんな風に感じている人に、「気持ち分かるよ」と共感したい思いもある。

けど一番は、あの時の自分、淋しくて悲しくて苦しかった小さな私に、「大丈夫だよ」って伝えたいからなんだと思う。「あなたが今感じているその思いは、正しいとも言えるし正しくないとも言える。あなたはひとりぼっちだとも言えるし、ひとりぼっちじゃないとも言える。全てを投げ打ってしまいたくなるかもしれないけど、それも含めて大丈夫だよ」って言ってあげたいからなんだと思う。

長いこと「人生の終わり」を切望していた私だけど、「嫌だ」「すごく嫌だ」と感じることはあっても、今は終わりを切望することはなくて、そんな未来その時には想像がつかなかった

「諸行無常」じゃないけれど、変わらないことなんてなくて、未来はもちろんのこと過去だって変えられる。それでもまだどこか淋しさを拭えない自分に、「淋しくても大丈夫だよ」って言い続けるために、私は読み続けるし書き続ける。

最後までお読み頂きありがとうございました(^^)

基本的には自分のために書いてるんだと分かったんだけど、それを「スキ」って言って貰えたり、「書いてくれて嬉しい」とか言ってもらえることが最近時々あり、「嬉しい」という言葉では表現しきれないくらい嬉しくて、幸せな気持ちになります。そんなこと言って貰えるとは全く想定していないから、どどどど、どうしよう…ってキョドってるくらいに嬉しいです。

「人生とは孤独である」を自分に納得させようとずっとしてきた私なんだけれど、そうでもないかもなぁ、と感じてきているのがここ最近で、子供達の存在はもちろんのこと、書いたものや言ったことに対して貰えるリアクションも関係していると思います!

「自分のためが他人のため。他人のためが自分のため」その感じはなんとも言えない嬉しさあるなぁと。
それと同時に、「自分のためにやっている」感も強くあるから、全くリアクションが無くても「そりゃそうだ」と思って気にせずに書き続けられるのが私の強みなのかもしれない。そうは言っても、リアクションを頂けるとものすごく嬉しい!!

壮大なひとりごとにお付き合い頂き、本当にありがとうございます!!

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書けども書けども満足いく文章とは程遠く、凹みそうになりますが、お読みいただけたことが何よりも嬉しいです(;;)