不便さを残す優しさ〜カップヌードルのプラモデル〜
今朝、カップヌードルのプラモデルが発売されたというニュースが流れていて、ふと思った
なぜ、みんなプラモデルなんか買うのだろうか・・・?
いやいや、そこ?
なぜ、カップヌードルのプラモデルなんか作ったのだろう・・・?
と思う方が普通じゃない?
そっちの感情の方が自然に出るよね?
と思ったかもしれないが、
僕は男でありながら、プラモデル系に憧れたことは、今までの人生の累計でも0.2秒もなく、本当に心の底からそう思ったのだ
なぜ、人は昔からプラモデルなんかを買うのだ・・・?
そして、1秒後には頭の中で答えがでた
あ!そうか!達成感を売っているんだ!と
利便性、効率性、完成度だけを考えれば、もちろん自分でつくるよりも、工場で機械製造した完成品を売る方に全ての軍配が上がる
ただ、それをあえて部品で売る
そこに不便さを出すことによって
組み立てるという過程が生まれ
それによって購入者は日頃なかなか味わうことのできない達成感を得ている
僕だからこそ作れたんだと
自分で作ったものだからこそ、愛着もわく
これと似たエピソードがホットケーキミックスの話だ
昔、卵を入れずに水だけで作れるホットケーキミックスを開発した会社があったのだが、これが全く売れなかったらしい
また、こんなエピソードもある
昔、洗剤なしで水だけで洗浄できる洗濯機を莫大な開発費を投入して作った電機メーカーがあったが、これまた全く売れなかったらしい
これらの事例で一目瞭然だが、人は基本面倒くさがりなんだけれども、ほんのちょっとの手間は実は加えたいのだ。
卵をわる
洗剤を入れる
このほんのちょっとの手間を加えることで
無意識のうちに
自分だからこそできた
という達成感を求めている
だから、不便さを残すのはある意味で優しさなのだ
僕はビジネスはもちろんのこと、教育もそうあるべきだと思っている。
答えを与え続けても何の価値もない。ある種の不便さを残した上で、生徒たちが自分で答えに辿り着けるような余白を提供し続けるべきだ。
それが教育者だと思う。
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