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力ある限り生きていくんだ今日も

前の職場で担当だった利用者の保護者が亡くなった。

 
まだ若いし
急な死だった。

 
それを知った時は言葉を失った。

 
 
転職先からでも十分に歩ける範囲にあったその利用者の家を
私はその道を通るたびに見ていた。

 
偶然、会えないかな。
私はここにいるよ。
今、ここにいるよ。

 
そう内心思いながら
その道を転職先の利用者と何度も通っていた。

 
外観はあの頃のまま
何も変わらずにあったはずだった。

 
その利用者の送迎の関係で
時折、前職時代の施設の送迎車とすれ違った。

 
相手は私に気づいていなかったが
私はそれでも嬉しく
そして切なかった。

 
だけど保護者が亡くなった知らせを聞いた時は
切ないだけでは説明できなかった。

 
担当は約10年
出会ってからは約12年半になる。

 
非常に子育てに熱心で生真面目で責任感が強く
行事にも協力的だった。

 
家族全員で行事に参加もしてくださる珍しいご家族だった。

 
真面目に生きて生きて生きて
それで悩み、苦しみ
私は連絡帳だけでなく、直に会った時だけでなく 
電話でも長々とした悩みや愚痴を聞いたりもした。

 
思いあまって心中でもしかねない、と私は内心心配していた。

 
なかなかに難しいケースで
保護者の方は熱心だった。
身を削って支えていた。

「ダメな母親」
「ダメな妻」
「ダメな女」

と何度も言っているのを聞き
そのたびに私は伝えてきた。

 
「こんなに頑張っている方を私は知らないです。本当によく頑張っていると思います。」

 
「仕事と家庭の両立、妻や母としての役目、障害がある子の子育ては、私には図りきれないほどの大変さだと思います……分かります、なんて軽々しくは言えません。
ただ、私が言えるのは、ダメじゃないということです。
お子さんはお母様が大好きです。そんな方がダメなわけがありません。少なくとも、私はダメだとは思いません。
私はここまで頑張れるとは思いません。本当にすごいです、よく頑張られていますよ。」

 
そんな言葉を何回も繰り返した。

気休めになったかは分からないけれど
利用者、そして保護者の力になるのが福祉職員だと思っていた。

 
頑張って頑張って頑張って頑張って…
燃え尽きたのだろうか。

今は解放されて休めているのだろうか。

 
そんなことばかり気になった。

 
 
亡くなった翌日
私は仕事でその家の前を通ったけれど
やっぱり外観は変わらなかった。

 
私は利用者や他の職員と談笑しながら通り過ぎたけど
心の中では泣いていた。

 
その日の仕事服は黒を選んだ。
喪服のつもりだった。

 
こんなに近くにいるのに
家を尋ねることも
お悔やみを申し上げることもできない。

退職したから。
転職したから。
もう他人だから。

それが悔しくて、やるせなくて、途方に暮れる。
私はもう何もできない。

 
保護者が亡くなり、利用者は入所が決まったらしい。
そこには体験も行っていたらしいし
よく知っている方もいるらしいから心強いと思う。

 
ご家族が亡くなったことにより、利用者が退所するのは珍しくない話だ。

仕方ない、仕方ないのだ。
福祉職員にもできる限度があるのだ。

分かっていても
やるせなくて、ただ、やるせない。

 
 
退所後、利用者は施設を訪れて別れの挨拶をしたらしい。
そしてこう言っていたらしい。

「僕は、ともかさんと歌を歌ったんだ。」

その話を聞いた時
私は涙がこぼれた。
涙がこぼれて、ポタポタと雫が垂れた。

 
私が退職して2年半が経っても
覚えていてくれてありがとう。

 
私も覚えている。
一緒に施設の行事でカラオケに行ったあの日を。
そして、何を歌ったかも。

そうか、覚えていてくれたんだね。
嬉しい。嬉しいよ。

 
 
私は一人、空を見上げながら歌を歌う。
利用者を、保護者を想って。

見上げた夜空の星達の光
古の思い願いが時代を超えいろあせるコトなく届く

*~アスタリスク~/オレンジレンジ





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