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ショートショート:夜の陽炎

陽炎(名)・・・春や夏に、日光が照りつけた地面から立ちのぼる気。

 夜の熱気を浴びて私は頭がクラクラした。

 コロナで一時静まりかえっていた街も、気がつけば喧騒を帯びて再び活気を取り戻していた。辺りには酔っ払いの男どもが騒ぐ声。うるさいったらありゃしない。

 昔は酒を浴びるように飲んで記憶を忘れるくらい騒いで朝に帰るというのが日課だったけど、さすがに三十路を越えたあたりから昔の悪い男たちの縁も切れた。最初は何か自分の一部を失ったかのようにちくりと胸が痛んだけれど、その痛みも今は遠い過去に追いやられてしまった。

 今日は果たして何度目になるか分からないくらいの私の生誕日。残念ながら祝ってくれる人は誰もいない。全く当て所もなく私はフラフラと通りを歩く。「ねえ、姉ちゃん。どこ行くのぉ?」と赤ら顔のおっさんが話しかけてくる。その弛んだ顔、なんとかしてほしい。

*

 ひたすら道を歩くと、段々と人通りが少なくなっていく。その中でほのかに明かりの灯るお店があった。私は吸い込まれるかのように中へと入る。

 店内は程よい空気感に包まれていた。どこからか聞こえてくるジャズ。これは遥か昔に聞いたことがある音楽のような気がするけど、題名が果たしてなんだったか思い出せない。どうしてこんなにも体がふわふわするのだろう。

 マスターは私が入ってきた瞬間、「いらっしゃいませ」と小さいながらもよく通る声で出迎えてくれた。それは深い海を思わせるような、不思議な声色だった。その声を聞くだけで何か目の前がぐらぐらぐらつきそうになる。

 私が座った席から左に三つ離れた場所には、若い女の子とどこか羽振りの良さそうな恰幅の良い男が座っていた。なんとなく二人の関係性が見えてくる。そんなに自分をすり減らすようなことしなくていいのに。散々振り回されてどうせ飽きられるのがオチだ。

 男の声が大きくて、思わず耳に入ってくる。

「これはね、ライラというカクテルなんだよ。カクテルにもカクテル言葉というのがあるんだ」

「え、これはどんな意味があるんですか?」

「『今、君を想う』という意味だよ」

 隣にいる女性は「えーロマンチック!」とはしゃいだ声をあげる。隣で聞いていた私は思わず男の言葉に鳥肌が立った。もう少し酔いが回っていたら男のケツを蹴飛ばしていたに違いない。これが恋は盲目、というやつか。

「マスター、何かすぐに心地よくなるような強いお酒をください」

 バーカウンターを挟んで私と対照的に佇むその男はチラリと私を一瞥した後、軽く頷いていくつか名前のわからないボトルを取り出す。しばらくするとシェイカーの中に氷を入れてシャカシャカと振り始めた。昔男に初めてバーに連れてきてもらった時、なんて耽美的な場所だろうとうっとりしたことを思い出す。バーに初めて私を誘ってくれた男は、ことあるごとにいろいろな場所へ連れ出し、その度に知らない世界を見せてくれた。

 提供されたお酒は、半透明のブルーの色をしたカクテルだった。マスターはお酒の名前も言わず、ひたすらカクテルグラスを黙々と拭き続ける。

 一度沖縄へ旅行に行った時、初めてダイビングをした海の青さが今でも忘れられない。海の中は眩いほどの光に包まれていて、神秘的というのはこんな時に使うのだと思った。あの時の光景が目に焼き付いて離れないのだ。

 やがて男は私の前から去っていった。それがまるで当然であるかのように。私はその男といつか結婚できたらいいなと思っていたのに、期待は裏切られやがて泡のように消えてしまった。

*

 マスターが提供してくれるお酒はどれも甘くて醒めない夢のようにいつまでも余韻を引き摺る味わいだった。次第に視界がぼやけてくる。店の中は気がつけば私以外誰もいなくなっていた。

 だんだん眠気が襲ってきてその場で思わず突っ伏しそうになる。それを見て、「大丈夫ですか、お客様」と言って水を差し出してくる。私は思わず水を掴んで一気飲みした。そしてどこか焦点の合わない目で「もう一杯ください」と懇願する。

 マスターは何も言わず再びシェイカーを振り、先ほど拭いていたカクテルグラスの中にトクトクと鮮やかな液体を注いでいく。最初に作ってもらったカクテルとは対照的に、真っ赤な色をしたカクテルだった。

「これは、なんのお酒なんですか?」

「カーディナルというカクテルです」

「何が混ぜられてるんですか?どこかで飲んだ味がします」

「ワインとカンパリですね」

 思い出した。バーで、私の昔の男がよく注文していたカクテル。大学を卒業して最初に就職した職場ではひたすら精神をすり減らした。そのとき、窮地から救ってくれた男。「これ俺のお気に入り」と言って、よく飲んでいた。

「このお酒にも、カクテル言葉ってあるんですか」

 マスターは少し逡巡した後、答えた。

「『優しい嘘』です」

*

 その後、果たしてどうやって家に帰ったか覚えていない。気がつけば私はベッドの上に突っ伏していて、二日酔いの気持ち悪さで目を覚ました。ぐらつく体をなんとか起こして、部屋のカーテンを開ける。太陽の光の眩しさで思わず目を瞑る。

 再びゆっくりと目を開けると、視界の下にゆらゆらと何かが揺らめていた気がした。思わず私はそのままトイレへと駆け込んだ。

 


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