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毛皮と縁、私の神様

 神様の名前を僕らは、今日知ってしまった。

過ぎゆく季節

 言葉の濁流に押し流されそうになる。半年ほど前に、長編小説をnoteで公開したことがあったけれど、その時よりも今回書いた中編小説の方が骨が折れた。分量的には半分くらいなのに。

 私生活ではなんとか簿記に合格し、だいぶ余裕が出たので他の人のnote記事を読み、文章を書き、そして小説を読んだ。昔は4半期に1回とかしか簿記試験を受けられなかったのに、今は期間を置かずに挑戦できる。なんて素晴らしい時代なの!

 ひたすら文章を書いているうちに季節はすっかり夏から秋に衣替えをしてしまった。私は金木犀の香りが好きなのだけど、肌感覚ほんの5日間くらいで匂いが散ってしまった気がする。まるで浦島太郎になったような気分だ。

 小説を読むのは好きなのに、いざ自分で書こうとするとなかなか筆が進まなくて気を揉んだ。小説を書くときには、「Nola」という小説家専用エディタツールを使っている。細かい登場人物や時代背景などもメモに残せるのでなかなか便利。

神様の名前

 煮詰まった時は、ROTH BART BARONの「けもののなまえ」を聞いていた。知らない人が多いと思うけど、なかなかの名曲だと思います。私見なのでハマらない人はいるかもしれないけど。

 勝手に今回書いた小説と重ね合わせていた。けものの皮ってきっと誰でも被っているものだと思う。ペルソナ(仮面)という形で。獅子か兎か狐か熊か麒麟かわからないけど。みんながみんな自分ではない誰かになろうとしている。

 それはときに楽しいし、演じ続けることに対して苦しさも感じる。仮面を被り続けることに疲れたら、自分の中にあるよすがに頼る。

 人によってはよすがのことを神様と呼ぶのかもしれないし、別の誰かにとっては身近な人のことを指すのかもしれない。とにかく誰かが私のことを見てくれているということだけで、救われた気持ちになる。

自分ではない毛皮

 当たり前だろうけど文章を書く人は誰かに伝えたい何かがあって。加えて面白い筋書きを思いつくと誰かに話したくなる。文章を読むのにも書くのにも、簿記の勉強と同じでそれなりに訓練が必要だ。

 読むという意味だと、普段全然読んでいない人に比べて読み慣れている人はすらすら文字を追うことができるし、その世界観に浸ることができる。本を読めるということは立派な訓練の成果だ。

 書くことについても、同じく訓練が必要。単純に小説をたくさん読んでいれば良いというわけでもなくて、普段から言葉を吐き出す訓練をしておかないときちんと文章が輪郭を成さない。私はここ約1年くらいnoteでずっと文章を書いていたけど、長い文章を書くのには不慣れであることが改めて露呈した。

 ついこの間まで書いていた『ビロードの掟』は本当はそれほど長い文章にするつもりはなかった。序章の文章だけ決まっていて、短編くらいに止めるつもりだったのに、後から後から思いが募っていった。

 自分の思いが弾けるきっかけになったのは、やっぱりコロナが大きいと思う。思うように友人や家族と会うことができなくて窮屈だったことも含めて、今ではあれもひとつの経験だったのかなとポジティブに考えるようにしてる。(皆さん、コロナで何が大きく変わりましたか?

*

私にとってのよすが

 短編小説は短距離走、長編小説は長距離走。

 瞬発的に終わってしまう短編とは違って、長編小説はただひたすら走り続けなければならない。正直苦しくて、息切れもする。でも最後まで走り切ることができたのは、私の拙い物語をずっとずっと読んだりコメントしたりしてくれる人がいたから。

 読んでいただいた方、本当にありがとうございました。おかげで一陣の風を掴むことができた模様です。

 本当はもうひとつ短編を書こうかなと考えていたけれど、走り過ぎて息切れガス欠を起こしてしまったのでショートショートにしました。

 体力回復したらまた別の物語を書けたらいいなと思いながら。しばらくはここ最近書き溜めていたエッセイを放出していきます。

*追記(メモがわり)
今回小説を書くにあたって気をつけたこと
 ・年代の整合性(これもしかしたら違ってるところあるかも…)
 ・伏線的な小道具たち(意識して書いていたけど、難しい)
 ・登場人物の心情(これはもっと訓練が必要)
 ・毎日ちょっと気になる部分を描く(これも難しかった…)
序盤の書き方については、もっと工夫が必要。

夏に書いた物語のカケラ、寄せ集め

2021年10月

#わたしの舞台裏

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