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#68 クリスマスの思い出

「フェアじゃないと思うんだ」

 彼の口癖だった。その言葉を聞くたび、うまくその言葉が自分の中で変換されなくて、静香は戸惑った。フェアって、よくファミレスとかで期間限定でやっているやつかな?その人の言葉は、まるで空気の如く、自然とあたり一体に漂っている。

 その日は、数えると雄也と付き合ってから3回目のデートの日だった。クリスマスの日にはいつもとは違う場所に行きたいと言うと、それじゃああそこかな、と思案顔で連れて行ってくれた先は、今にも潰れそうな寂れた映画館だった。ここが今も営業していると言われなければ、廃墟だと思ったかもしれない。

 正直言うと、自分で言い出したにも関わらず静香は後悔していた。なぜクリスマスの日に、よりによって恋人とこんな寂しい場所で共に時間を過ごさなければならないのか。映画のタイトルは、『クリスマスの思い出』という名前だった。またありふれた名前だと思いながら、静香は雄也からチケットを受け取る。

「せっかくだからポップコーン買って行こうか」

「さっきお昼食べたばっかりだし、別にいいかな」

 口にしてから、静香は自分が発した言葉がぶっきらぼうな感じに響いていないか少し気になった。横に立つ雄也をそれとなく眺めると、彼は特に気にするそぶりも見せなかった。彼の鈍感さは良かったと思いつつも、時々ひどく癪に触ることがある。

「さてさて、どんな内容なんだろうか」彼は自分一人買ったコーラをズズズと音を立てて吸った。数分の予告のうち、暗転して本編が始まる。最初の光景は、朝日が登りきり、雪がちらちらと降る場面からだった。

「会えないけれど繋がっている」感覚を保つことで、磨かれる場所がある。どんどん透明になるものがある。

『夜が明ける』西加奈子 p.82

 無理に記事を書く、というわけではないけれど、1週間に1回は最低でも文章を書かないことには自分の中で何かが崩れる様な気がしている。日常を惰性的に生きることは簡単で、何も自分から行動しなければ良いだけだ。でもそれは、私が大切にしている何かを自らの手で破壊してしまう行為だと思った。

 先週末から1週間程度、昨日まで私はひたすらあちこち飛び回っていた。仕事がたまたま地方で行われることになり、ずーっと移動していた。比較的スケジュールに余裕があったので、ちゃっかり観光なんかしたりして。

 昔に比べると、仕事での私ができることは格段に増えた。その自覚が芽生えたのは、つい最近のこと。あれほどいつか絶対やめてやる、と思っていたのに気が付けば新卒から今に至る。居心地の良さとか以前に、自分が行ったことに対して周りの人たちが少しずつだけど認めてくれているのも大きいのかもしれない。

 世間ではすっかりクリスマスモードになっていて、富山から始まり金沢、奈良、京都、大阪と複数の都市を跨いでもどこでも見られるのはクリスマスのイルミネーションと心踊るクリスマスソングだった。

 私は捻くれた性格なので、うわぁまたクリスマスソング流れておるわ、いい加減食傷気味だから、どこかでクリスマスを連想させない弾けたロックミュージックでも流してくれないかなと思っていた。

 昔はあれほどひとつ一つのイベントにこだわりを見せていたのに、きっとかつての自分が今の私を見たら嘆き悲しむことであろう。あんなにワクワクしていたあなたは、どこにいっちゃったの、と。

*

 今でも何かしらのイベントにワクワクすることは間違いないのだが、こうも昔とは違う感情を持つに至ったのは、きっと現実を知ってしまったからなのではないかと思っている。

 小学生の頃、サンタクロースはいるんだと思っていた時のこと。夜が深まるまでなんとかその正体を知ろうと思っていたのに、寝入ってしまった。私は律儀にもサンタさんに向けて手紙を書いていて、今でもその時のことを思い出すと赤面してしまう。そういえば、そんな純粋な時もあったのだな。朝起きると、布団の上にはプレゼントが置かれていた。

 歳と経験を重ねるたびに、現実の前に突きつけられる渾然と存在するものの正体を知る様になる。世の中には暗黙知とされるルールが目の前に横たわっていて、若い頃にはそんなもの覆せると思っていたのだが、いざその変化の前に立ち向かうと足が竦む。そもそもその術さえ知らない。

 かつて海外に滞在していた時に、友人たちと教会へ潜り込んだ時のことを思い出す。教会の中では、やがて迫り来るコロナのことなんて露知らず、皆が肩を寄せ合って懸命に讃美歌を歌っていた。寒いなぁと言いながら、時々つまらないジョークを混ざり合わせながら、それでもオルガンの音が聞こえ始めると皆が一斉に真剣な様子になり、口を開く。

 清く、正しい世界を見た様な気がした。キリスト教に限らず、日本でもそうだし他の国々でも人々が祈る姿を見た。彼ら彼女たちは、いったい何に祈っているのだろうと思って、仲良くなった人に聞いたこともある。彼らの目を見たときに、単純に澄んでいると思った。それと同時に何かが宿っている。生きる力が、滲み出ていた。

*

 関西に滞在する最終日、私は京都の祇園四条という駅からほど近い場所にある「スマート喫茶店」へと足を運ぶ。開店ほどなくしてすでに行列ができている。半分くらい、日本語以外の言語が飛び交っている。気が付けば、ヒタヒタと日常が戻りつつある。

 張り切りすぎて、朝早く起きてしまったために意識が少し朦朧としている。店員さんにメニューを渡され、私は思わずハッとして、フレンチトーストを注文した。西加奈子さんの『夜が明ける』という本を開く。少しずつ大切に読んでいたのだが、喫茶店にいる間に最後まで読めそうだ。

 5分とせず、フレンチトーストがやってきた。左隣のカップルは、今日どこいく?と楽しげに会話しており、右隣の外国人のグループは何かジョークを言い合っているのか気さくな雰囲気だった。

 映画館を出ると、不思議な現象が起きていた。昼を少しすぎてから建物の中へ入ったはずなのに、朝まだきであるかのように、東の空から少しずつ日が登り始めているところだった。

「え、意味がわからない」と、静香は思わず言葉を口にする。

「そういう場所なんだよ」と、雄也は静香を諭す様な口調で言葉を発した。

 依然として静香は腑に落ちないまま、なぜか映画館を出てから朦朧とする様になった頭の意識を抱えて、トボトボと歩いた。既視感と違和感が共に混在しており、よくわからなくなる。

 彼は歩きながらまた誰もが聞いたことのある蘊蓄を話す。

「この世界のどこかでは、サンタクロースは悪魔として認識されている国もあるらしいよ」。白い髭を生やした好々爺のイメージは、コカコーラ社によって作り出されたものなんだ。クリスマスって、恋人同士で過ごす日だって、誰が決めたんだろうね。

 次第に、雄也の言葉が遠くなっていく。たらりと頭上から血が流れる姿を想像した。滴り落ちる真っ赤な血とサンタクロースが来ている真っ赤な服が、うまく頭の中で結びつかない。

 今朝のニュースでは、寒波が到来したために暖かい格好でお出かけしてください、とアナウンサーが言っていた。

 空からチラチラと雪が降っている。朝は、道端に人の気配がしなくて、しん、と静まり返っていた。意識がゆっくりと、今の状況を飲み込みつつある。ただひたすら「心穏やかに」と願おうとした。というよりも、自然と舞いゆく粉雪を見るたびに、ひっそりと静まり返っていくのがわかる。

 静香は、のちにこの日のことを勝手に「サイレントモーニング」と名付けた。静謐で、厳かな時間がゆっくりと時を刻みながら進んでいく。言葉がなく、タイトルのわからない音楽が頭の中で延々と流れ続けている。今年は、人との距離感だとか付き合い方の難しさを思い知った。自分の中へガソリンを入れようとするたびに、円高の影響で値段が釣り上がり、入れることを躊躇してしまった。

 雄也は再び口を開き、「祈りによって、正しく叶うことを信じる?」と言う。言葉は硬質で、地面にぶつかり、カチンと音がする。

 静香は雄也の質問の意図を探ろうとした。寒さで歯と歯が少し震え、カチカチと小さな音を立てる。考えようとする意識が徐々に鈍っていく。

「わからない。だって、祈りを捧げたところで叶えることのできないものがたくさんあるから。この世が平和になりますように、とか、差別がなくなりますように、とか」

「なるほど、ね」

 雄也はポケットから何やらゴソゴソとカイロを取り出してシャカシャカと振り始めた。その音でさえ、今のこの空間には邪魔な音だと思った。雄也は、少し神妙な様子で言葉を紡いだ。

「それはまた壮大な話だと思う。たぶん祈りというのは、自分の身の回りにある比較的平易で小さなことから始めなければいけないと思うんんだ」

「平易なこと?」

「そうそう。この間さ、『Silent』っていうドラマやっていてそれ見てたんだけどね。想っていう主人公が、ヒロインに対していうのさ。紙を42回折ることで、月に到達するっていう」

「それが?」

「42回って、具体的だし、それほど大変な数字だとは思わなくない?その数字に信憑性があるかはともかくさ、」

「うん」

「祈るにあたっては、より具体的かつ自分が達成できうるものを挙げるべきだと思うんだよね。じゃないとフェアじゃないと思うんだ。一方的にこちらから祈りを捧げて、何も見返りを渡さないくせに何かを得ようとするなんて」

「うん」

「卑怯だと思うんだ」

 正面から雄也と目があった。先ほど頭の中で流れた音楽の正体に思い至った。昔、家族と京都へ行ったときにオルゴール館で聴いたものだった。ネジをギュルギュルと回すと、クルクルと人形が回り、カチンカチンと金属が触れ合う音が聞こえ、それは音の連なりとなった。

 雪は静かに降り積もり、それはやがて山となる。祈りも同じなのだろう。最初は形には見えないけれど、やがて時間が経てばその姿を認識できる様になる。そんなふうにして、雄也との間にある愛も育まれていくのかもしれない。

 でも一方で、静香は同時に理解もしていた。こうして丁寧に彼と愛を育んだとしても、ほんの小さな綻びから生まれた確執によって彼とはやがて別れることになるであろうことを。それでは、なぜ彼と付き合い続けるのだろう。

 それはきっと、愛を積み重ねなければ見えないものがあるから。弛まぬ続けたものに関しては、きっと自分の中に糧として残るはずだから。

 ちらちらと降る雪に手をかざし、静香は空を見上げた。何かそこに希望を見出した様な気分になった。あの映画に出ていた登場人物が食べていたフレンチトーストを食べたくなった。片手には、あの映画と同じ名前の本を手にして。


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