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鮭おにぎりと海 #48

<前回のストーリー>

ニューヨークという街は、孤独と自由が隣り合わせで共存している場所だ。

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これまで読んだ中で忘れられないアメリカ文学のひとつに、トルーマン・カポーティという人が書いた『ティファニーで朝食を』という作品がある。

まるで猫のように、社交界を生きるホーリー・ゴライトリーという女性が話の中心である。タイトルの元になった、冒頭彼女がティファニーのお店の前でパンを食べる姿はなんとも自分の中に強く印象に残っている。

彼女は元は田舎娘だったのだが、その美貌と巧みな世渡りにより、さまざまな金持ちの間を練り歩き、一見なんとも満ち足りた生活を送るのである。もちろん何も職を持っていないし、自由気ままな生活を送っている。

物語の語り手は、最初ホーリーに対してその奔放すぎる生き方に対して嫌悪感を抱くのだが、付き合っているうちに次第に彼女の魅力の虜になっていく。そしてホーリーはその語り手の思いを知ってか、彼を翻弄するような行動を取るのである。

『ティファニーで朝食を』はどちらかというと、本よりも映画の方が有名になってしまった。映画では、歴史に残る大女優であるオードリー・ヘップバーンがホーリー・ゴライトリーを演じている。

映画では、俺が当初本で読んだときに抱いたホーリー・ゴライトリーの印象とはだいぶ異なる。しかも、最後ハッピーエンドだ。ホーリーと、語り手の青年は結ばれる。本はというと、決して幸せな終わり方とは言えない。ホーリーがことあるごとに自分と重ね合わせていた猫は、手放したきり戻ってくることはないし、最後ホーリーはなぜかアフリカにいることになっている。

どちらの結末が良かったのだろうか。小説ではホーリーはあくまで自分の生き方を貫き通し、最後まで自由であることを手放すことはなかった。映画は、最終的にホーリーと語り手の青年は結ばれる。どちらの展開も捨てがたかった。

ただ、映画を見ても小説を見ても俺がぼんやりと思ったことは、自由奔放に生きている人間は、同時に孤独を秘めているのだ、ということだった。

♣︎

たまたまだが、俺がニューヨークへと到着する少し前から、ティファニーのお店で映画の名のごとく、朝ごはんを食べられるようになった。

ティファニーで朝ごはんを食べることは多少夢見ることはあったけれども、結局滞在中はその希望を俺は叶えようとしなかった。なぜだかわからない。でもティファニーで朝食を食べたら、自分の中にある何かが脆く崩れてしまうような気がしたのだ。

映画の中で最も印象深いワンシーンは、ホーリー扮するオードリー・ヘップバーンが、自分が住んでいるアパートのベランダで、ひとり座って歌を歌うところだった。確か「ムーン・リバー」という曲名だったはずだ。歌を歌っている間のホーリーの表情が、なんとも憂いを帯びていたことを思い出した。

♣︎

何をもって、幸せな人生と言えるのだろうか。

俺はおそらく周りの人たちと比べると、人に恵まれて生きてきた気がする。何不自由ない暮らしをしてきて、食べるものにも寝るところにも困ったことがない。そしてこうして、親の脛をかじりながらさまざまな場所を旅することができている。

側から見たときに、人は俺のことを自由人と呼ぶかもしれない。確かに俺は、なにものにも縛られず生きてきた。だが、自由であることは幸せであると言えるのだろうか。

確実なことは、海外に行くことで満たされると思っていた俺の心は、少なくともニューヨークにやってきても満たされることがなかったということだ。そして、少なからず孤独を感じていた。この先、何も見えない恐怖。

何が幸せだと言える人生なのだろうか。きっとそれは、俺がいつか死ぬ間際にならないとわからないのではないだろうか、ぼんやりとそんなことを思った。

ニューヨークに滞在する最後の夜は、月が夜に紛れる新月の日だった。

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