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「共感」と「感情移入」の違いについて

どうも、こんにちは、ダイチです。

今回は「共感」と「感情移入」について書かせてください。
駄文になるかもしれませんが、感情移入はされないけど、共感はされる文章になるよう頑張りたいと思います。

あなたの「わかる!」は何ですか??

私は読書会を主催したり、参加したりしている人間なので、これまで多くの人の本の感想を聞いてきました。その中でずっと整理できていなかったことがあります。
それは「わかる!」という言葉です。
「わかる!」、これめっちゃ読書会で飛び交います。
自分も言います。「それ、わかる!」
少なくとも一度の読書会があったら軽く20回以上は言うでしょう。特に主催してるときなんか、他の参加者よりもコメントする気持ちが高まっているので、「あー、それ、わかります!」って言ってます。息をするように言っています。

おまけに私は「文学ラジオ空飛び猫たち」という文学作品を紹介するpodcastをやっていて、相方と2人のトーク番組なんですが、もう相方の発言に対して「わかる!」とか頻繁に言っています。頻繫に言い過ぎて、9割型編集でカットしています。(9割はちょっと過言だったかも。)

この「わかる」は何なのか。

おそらく、この「わかる」ですが「共感」「感情移入」に分かれます。
交じり合っているときもあるかもしれない。

そんな「わかる」に今回は意識を向けて深ぼっていきたいと思います。

共感と感情移入の違いについて

共感と感情移入の違いってなんでしょうか?
これ、似て非なるものだと思うんですよね。
共感というのは、例えば話してくれた相手に対して、その立場を認めるもの。(なんか上から目線に聞こえるが、うまい言葉が見つからない。ニュアンスでわかってくれ!)
つまり、共感には距離があるんです。あなたの立場や考え方はわかります。でも自分は違うかもしれないという状態。自分は違うという可能性を自分が認めている状態でしょうか。ややこしくなってきましたが、ここで難しいのは共感しているけど、自分の考え方が違う場合とほぼ同一だなという場合があると思います。一旦ここ深ぼっていくと迷路にはまりそうなので、スルーしますが、共感とは距離があるという状態だとご理解ください。(あくまでも私の個人の感覚としてです)

そして感情移入です。
もうお分かりだと思いますが、感情移入は0距離です。
相手に対して感情移入していた場合、もう相手=自分です。投影してしまっているという状態です。

いるでしょ? ルフィに感情移入にして自分も海賊王目指しちゃうやつ。(いないか??)

なにせよ、自分もばっこり小説の登場人物に感情移入して、苦しくて涙をボロボロ流すときがあります。もほや、そのときは自分=主人公です。そういう作品が小説にはあります。
これも「わかる!」ですよね。

カズオ・イシグロの名作『日の名残り』で体験した感情移入できなかったこと

さて、ここで整理しますが、「共感」と「感情移入」は距離の違いあるということです。こうなってくると「感情移入」しないけど「共感」するという状況が生まれてきます。
私にとって、わかりやすい例はカズオ・イシグロの「日の名残り」のスティーブンスです。


彼の語りで構成される名作ですが、読んでいると、このスティーブンス、やばいやつであることがわかってきます。
執事として有能そうなこと言ってるけど、多分そこまでではない。
ある仕事仲間の女性が自分に惚れていると思っていたが、退職していなくなり、かなり時間が経った今も、その恋の火が彼女の中にあると思っていたけど違いっていた、など思い込みが激しい部分が見え隠れします。
そして、その姿が哀しい。
ここで彼に共感するけど感情移入はしませんでした。どういう思考で、どうしてそのような行動をしてしまうかは、読んでいればわかります。結果、哀愁を漂わせている姿には共感しますが、彼がどのような人間なのかは理解はできるけど、自分を投影できず感情移入はできない。
なぜなら、自分はそうではないから。
自分が仕事できなかったときはそれなりに素直に認めるし、以前自分のことが好きそうだった女性が他の男と結婚したならもう自分とは結婚したいと思ってくれていないだろうと思うから。
「いや、それはないよ、スティーブンス君」と言いたくなる。
でもこの作品に惹かれてしまうのは、彼のその性格と哀愁なんです。カズオ・イシグロはやり手の小説家ですから、彼の性格が読み手に伝わるように丁寧に物語を描きます。「あれ?こいつ、やばいやつじゃね?」ということを徐々に感じるようにやり、やがて「ああ!やばいやつだ!」と確信に変わります。わかりやすく共感できるんです、だって、彼の立場や考え方が丁寧に描かれた結果、理解できるから。そしてそこまでくると物語から目が離せなくなっている。「こいつ、どうなるんだ?やがて自分のやばさに気づくのか?」
そして迎えるラストの哀愁。なんて完璧な構成なんだろう!!
(※完全に個人の主観です。「日の名残り」をばっこり感情移入して読む方も多くいらっしゃると思います)
私は「日の名残り」を読んだときに、共感と感情移入の違いを明確に感じました。そしてカズオ・イシグロ、すごい!と思いました。

なんとなくですが「共感」と「感情移入」の違いがわかってもらえたかと思います。
(逆に「感情移入」するけど「共感」しないという状況はどういう状態だろうと考えるとうっすら怖いのですが、自分=相手に固執する状態なのではないかと思いました。これは怖いので一旦今回は置いておきます。)

「わかる」を区別しておいたほうがいいかもしれないということ

「わかる!」の話に戻したいんですが、ここには「共感」と「感情移入」という場合があり、重なっている可能性もありますが、自分の「わかる!」はどっち寄りなのか、相手の「わかる!」はどっち寄りなのか、もしかしたら時と場合によっては、しっかり判断しないといけないのかもしれません。

なぜ、ここを深掘りたいなあと思ったかというと、少し前に「他の人がこの作品を『わかる!』と言っているのがわからない」と言っている方と遭遇したからです。強烈な違和感を感じました。「わからない」ってどういうことだろう。で、その時思ったのは、この人は「わかる」を感情移入でしか捉えていないのかもしれないということです。いや、どういうシチュエーションで、どういう感情をもっていて、誰かの「わかる」を「わからない」と感じたのか、あるいは、したかったのか。そこは話を聞いてるそのときには、わかりませんでしたが、誰かの「わかる」を「わからない」とするのは乱暴だなと思ったわけです。例えば、猟奇殺人鬼(例えば、「羊たちの沈黙」のレクター博士のような)についてでも、紐解いていけば、彼の感情を理解でき、やったことは異常だけど、その感情の流れはわかるかもとなる場合もあると思います。
多分「わかる」ということを共感と感情移入をごっちゃにして整理できていないと、誰かの「わかる」が正しくキャッチできない可能性があると思ったのです。例えば、ある人の「わかる」を「わかる」としたくないという感情があったとしたら、それはその人=自分となりたくないという感情があるだけで、ただそれが正しく理解することを邪魔しているのかも、と思いました。別に嫌いな人でも「わかる」としていいと思うのです。その人の立場や考え方は自分とは違うけど認めるということで。

長くなってきましたが、ようやく自分なりの結論です。
「わかる」の中には「共感」と「感情移入」の2種類の、場合によるとベクトルが違う「思い」があるかもしれない。だからちょっと意識して、人の「わかる」に対して、排他的にならないようにしたいな、と思いました。
ああ、書いてみて、これが言いたかったんだと思いました。
感情移入はできずとも共感してもらえると嬉しいです。

こんな駄文を最後までお読み頂き、ありがとうございました!

今後、自分の思考整理のためにこんな駄文を書いていきたいと思いました。
一部の人の気分を害しそうだから「深そうで不快な駄文シリーズ」とかにしようかな。いや微妙か。

次回は多分「本が自分の人生を変えたと言っている人はどこまで本気なんだろう」という攻めた文章を書きたいですが、もはやこのタイトルだけですべてを言ってしまっている気がします。



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