見出し画像

この世界には確かなことなんて無いかもしれない。けれども、何かを信じることはできる。「騎士団長殺し」/村上春樹

『騎士団長殺し』面白く、不思議で、洞察深い物語でした。

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』『街とその不確かな壁』に続き、村上春樹は3作目です。『騎士団長殺し』の前に読了した2冊で、村上春樹の『手腕』的なものと『文章技巧』的なものと『軸』みたいなものが、概ね把握できたのは、『騎士団長殺し』を読むうえで有益でした。

今回は読みながらその瞬間に思ったことをツイートし書き留める作業をしてみました。140文字という制限とフォロワーの目があるということもあったので、端的に『纏める』ことを目標にしていましたが、すっかり長くなってしまいました。私の「長くなってしまった」という態度が、この物語が面白かったということを説明しています。(実況内容の整合性は「一意見」として扱ってください。)

1400ページに及ぶ文章の中には、いろいろな「点」が施されています。その「点」は回収されることもあれば、宙に浮いてよくわからないまま放置されていることもある。そして、その「点」が非常に重要な事実を物語っている可能性もあったりする。ずっと飽きさせない工夫があちらこちらに散りばめられています。



読書実況まとめ

主体をなくした主人公が『騎士団長殺し』を見つける

『騎士団長殺し』は雨田の父、雨田具彦の作品である。そして、その作品には雨田具彦の個人的な心残りが反映されている。その心残りとなった事実は、公に公表することが許されない。そのような状況で、雨田具彦は自身の絵画的技術を使うことで、その心残りであった事実を「寓意」として絵画に収めようと考え実行した。その成果物がこの『騎士団長殺し』である。

実用的な肖像画家として成功した主人公。その成功の反面、画家として大切な「主体性」みたいなものが徐々に欠落していく様子が「肖像画家として成功する」ことに描かれている。これが本著の最初のメタファーだろうか?

『肖像画家としての成功によって主体が欠けていく。』その最中に「騎士団長殺し」という強烈な寓意を含んだ絵画を発見したこととは、主人公にとっては最終的に福音だったのだろうと思う。


名もなき指揮者とオーケストラの演奏

主人公に肖像画を依頼した免色は、『ドンジョバンニ』の公演に関して以上のように語る場面があった。つまりは、免色は有名な指揮者や有名なオーケストラにあるブランド性や話題性に左右されないという性質が、少なくとも他の人より多くあるということ。そもそも『ドンジョバンニ』を各国で色々聴いたという経験がかなりとがっているし、彼の好奇心旺盛さを伺えるエピソードである。

つまり、『1つのものごと(ドンジョバンニ)に対しての視野角を広げる能力を持っている』これが免色の特徴である。この免色の特徴は、終盤に登場する「メタファー通路」を通過する主人公も発揮する力である。


不思議な鉦の音とその正体

鉦の音は「主人公に分からないことが何なのか知らせようとしている」のではないかと考えながら読み進めていたが、概ねその通りであったのではないかと思う。主人公の無意識的な表層が、あの石室で表現されていたのであり、その石室から聞こえてくる鉦の音とはつまり、「私自身が鳴らす音」であったということだ。そのきっかけとなった出来事とは、『騎士団長殺し』の発見である。


免色という人間

自前の好奇心の強さでビジネスでも成功を収めた免色。彼のその性質が、自身の根底にある何かを揺るがすことがある。それはつまり、「自分自身を疑って追究して発見する」ために惜しみなく行動することが、巡り巡って自分を変えることに関する繋がりを生み出し、それを確かに繋ぎ合わせることのできる行動力を持っており、その行動を推し進める好奇心がある、ということなのだ。
(彼は真っ暗な石室に一人放置されることを望んだ。彼は過去の経験を今に再現することで今の認識や行動を自律的に操ることが出来るように尽力したのだ。)

その彼の中にある認識・行動論により、「娘かもしれない女の子」の近所に引っ越すことを促し、高性能双眼鏡で彼女の様子を眺めるという行動に移したのだ。(文字にするとやばい男だ。)

はたから見たらやばい男である免色は、主人公に肖像画を依頼する。主人公はこのやばい男に色々と思案するが、やばいというのは免色という人物のほんの少しの表像にすぎない。その表像を観測するのは主人公であり、主人公の物差しなのである。そのようなことに、主人公は徐々に気付いていく。


その鉦を鳴らすのは誰か

石室が各々の「無意識」を表現しているのであれば、その石室で鉦を鳴らしているのは私自身ということになる。主人公が聞いた鉦の音は主人公が鳴らしたものであるし、免色が聞いた鉦の音は免色が鳴らしたものなのである。しかし、現時点での主人公は鉦を鳴らした「責任」みたいなものを、全体性のある何か(ミイラ・即身仏)に課すことによって「責任」みたいなものから逃れることを無意識に行っていた。誰か助けてくれるような気がしたのに、そこには誰もいないのだ。

しかし、石室発掘を「しなければよかった」という思いと同時に、「しなければいけなかった」という思いも、主人公の脳裏に浮かぶこととなった。


抽象的な肖像

もはや肖像画を満足に書き上げることは不可能なのではないかの思案していた主人公だったが、無事に免色の肖像画を描くことに成功した。その状況を想像してみる。主人公は、肖像画を描くことに自信を失っていた。その理由は、肖像画は他者を具体的に見つけ出してそれを描写し続ける作業を必須とするからである。画家である主人公自身の主観を完全に退けながら、モデルを認識し、その中にある洞察的に深い部分を読み解く必要がある。その作業の反復の中で、主体としての自分自身が「どこにいるのかわからないでいる」のだ。肖像画を描き続けることで肖像画を描くこと自体は上達するが、その肖像画家的技術が彼自身の主体性を貶めることに繋がるのだ。

『騎士団長殺し』を発見したこと、石室を掘り返した経験をしたことなど、この時点で主人公のイデアやそれを構成するメタファーは徐々に明らかになってきているため、もう描けないと思っていた肖像画を描き切ることが出来たのだろう。しかし、それはまだ確信に近い実感ではなかったのだ。


騎士団長・イデアとの遭遇

まず、騎士団長の様相についてはこの時点での私の読みは間違っていたらしい。騎士団長は絵画からそのまま表現されている(主人公はこの絵画に書かれた縮尺の騎士団長しか知らないのだから当然である)。そのため、絵画で描かれた騎士団長の全長に合わせて現実に顕れたということになるのだ。

また、ここで使用される「イデア」という用語は、プラトンが説く「イデア」とは異なるらしい。つまりは、個々の集合体・観念としての「イデア」なのである。よって、このイデアは人の数だけ存在しうるものである。(しかしながら秋川まりえは主人公と同様に「騎士団長」を見ている。)

そして、イデアは最終的に死滅する。主人公の手によって刺殺される。なので、当時の私が思っていた騎士団長の姿とは異なっていた。けれども、100%間違いというわけではない。人のイデアを完全に消し去ることはできない。それは、そのイデアは「他者の(私自身に対する)認識」をエネルギーにしていると後々明言されることにある。イデアには他者が必要である。それならば、個々の集合体・観念としてのイデアは完全に消えることもないし、時間が進む中でその姿形は刻一刻と変容をとげるはずである。そういう意味では、60センチという小さい騎士団長の姿は後に変容するだろうということに気付くことも可能だろう。


主人公のものとしての騎士団長

過去に見た映画などの俳優の表情や動作を思い出し、その表情や動作を騎士団長が模しているように見える場面が多々あった。「なぜか騎士団長はとある俳優に似ているような表情をする。イデアなのだからその映画を見たこともないだろうし、真似をしているとも思えないけど。」と、このような具合で表現されていた。

過去に見聴きした経験は、今の経験を語る術になり得ることを私たちは知っている。しかし、知っているからと言って、それを自律的に意識的に操ることはできないということも知っている。経験「する」と同時に、過去の経験は経験「される」のだ。


肖像画は「過去のわたし」

免色に贈呈した肖像画が、主人公の今の状況を教えている。肖像画は自分が作成している段階では自分のものであったが、贈呈した今ではそうではない。それはまるで、主人公の離婚の経験を思い起こさせる。もともと自分の妻だった女性が、私のもとを急に離れることになって離別する時のことだ。

読了してからこの場面を振り返ると、肖像画自身が新たに免色との関係を構築し始めている描写からもわかるように、肖像画には新規のメタファーが付け加えられているといえる。この肖像画から拒否されているように主人公は感じた。そのように感じた主人公は、この時点でこの肖像画を詳しく思案すれば、自己分析が可能だったのだ。私自身も、この肖像画と同じなのだ、と。私もこの肖像画と同じように、多くのメタファーが強い磁気を帯びて離れず自身を取り囲むように存在しているのだ。

主人公も、面倒くさいと思うことには、深く首を突っ込まない性格である。それは、首を突っ込めば「面倒なことが起こる」と分かっていてそれを避けるためだ。それがあらかじめわかるためには、過去の経験を照会しなければならない。経験の照会先が増えれば増えるほど、今の行動は抑制されうるのだ。肖像画は「過去の主人公」とも読める。肖像画も、めんどくさいファクター(主人公)には近寄らないでほしいと思っているのだ。免色との新たな関係に横やりを入れられたくないのだ。


揺らぎのない事実/揺らぎの余地のある可能性

免色が「まっくらな石室に1時間放置してほしい」と主人公にお願いしたことと、その出来事を回顧する場面。ここでは、石室に放置されたい理由は「死」に近づいてみたい、というものだった。「死」というのは、今を生きている我々にとってよく分からないものであるのだ。そのため、純粋に「死」に対する好奇心が免色にはあった。また、過去の経験での痛みや苦しみを再度自分へ課すことで、その時の経験を自律的に操れるようにする目的もあった。ダイエットをするにはダイエットのための行動が必要であり、そのためには体重計に乗らないといけない。体重計に乗って今の自分の体重を知らなければならない。今の私の体重を、否応でも知らなければダイエットは不可能なのだ。

免色は「揺らぎの余地のある可能性」を選択するといった。けれども、主人公はそれに対して「不自然ではないか?」と思った。主人公は、精密な実用的肖像画を生業として生きてきた人物だ。実用的肖像画を描くためには、モデルに対して「確固たる」事実を抽出し、それを絵画的技術によって表現しなければいけない。「事実が揺らいでいれば現実を見ることはできないではないか!」と今までの経験がそのように(「不自然ではないか?」)語らせるのだ。1つの表像や現象には1つの事実「のみ」が対応しているわけではない。分かっていても、そう思うことが出来ないでいる。そのような自分自身の実体に、無意識に気付いていくのだ。(スツールが勝手に動いたり、騎士団長があらわれたりすることによって表現されている。)

自分が当時考えていた、「組み立てたものを整理整頓する時間」とは、メタファー通路での時間経過に表されているのだろう。ここは予想通りだった。(整理整頓という言葉が少し違うような気もするが…。)


何かを「見たまま」にインプットすること

「寓意によって自己は小さなドメインに収斂せざるを得ない。」寓意はメタファーを必要とする。また、メタファーはイデアを必要とする。つまり、寓意はイデアを必要とする。上述した通り、イデアやそれらを構成するメタファーは変容し続けるものだ。生ものであると言っていい。しかし、変容は「ある時点」に焦点を当てて観測してみれば、変容していないようにも見える。その変容していないように見える時期に、それらの寓意やメタファーやイデアは、他のモノ(表像・現象・事実…)に固着し存在し続けることになる。変容するモノたちは、ある時期を切り取ってその変容したモノ自体に張り付いてラベリングしていくのだ。

とある事実は寓意らによって観測されて観念まで昇華されるけれども、その寓意らとは「とある事実」にしてみれば未来永劫全く不変のものにしかみえないのだ。確かに変容は刻一刻と進んでいくけれども、その変容中の寓意らによって、物事が観測されるわけではなく、ある1点の時期に物事が観測され観念になり、それが終了したころには寓意らは変容しているのだ。つまり、その反復の中で観念(をもつ自己)はあるドメインを目指して収斂することに繋がる。

Aという寓意らの時期にBを観測したとする。すると、寓意らはB⊂A(Bを含むA)に変化する。(なぜB⊂Aになるのか。それは、Bを観測するのはAの範疇のみであるからである。Aの寓意らしか持たない者はそのA以上の寓意を想定できない。)Aという寓意らはBを観測した経験を含むことになる。AとBの有機的な寓意らのつながりが保持されることで、より多角的な物事へのラベリングが可能になる。かつ、このAとBの有機的なつながりは事実を観測する際の豊満さをより強く主張するため、AかつBの寓意らが優先的に多く生き残ることになる。多くの時間をかけて、B⊂Aという寓意らが醸成され、その後にCを観測する。すると、寓意はC⊂B⊂A(Cを含むBを含むA)に変化する。(なぜC⊂B⊂Aになるのか。それは、Cを観測するのはB⊂Aの優先的範疇のみであるからである。B⊂Aの優先的寓意らを持つ者はそのB⊂A以上の寓意を想定できない。)B⊂Aという優先的寓意らはCを観測した経験を含むことになる。B⊂AとCの有機的な寓意らのつながりが保持されることで、より多角的な物事へのラベリングが可能になる。かつ、このB⊂AとCの有機的なつながりは事実を観測する際の豊満さをより強く主張するため、B⊂AかつCの寓意らが優先的に多く生き残ることになる。…以下同様に反復をとげる。自己のドメインは、寓意によって優先的にある点に収斂することになり、強固かつ貧相な寓意らを形成することに繋がっていくのではないか?

しかしながら、ここに真実がふくまれていないということにはなり得ない。上記した例のAという事実は、私自身の中にあらかじめ含まれていなければならないからである。何かしらの事実や信じるものが全くないという人は存在しない。「無」の状態で、生を維持することは困難である。そもそも、「無」とは存在しないということと同義である。(無というものが存在している、というのはナンセンスである。)なので、人にはAという「かりそめの事実」が必要なのであり、人はそれを必ず持って生まれてくるのだ。それが真実かどうかはさておき、そのような「かりそめの事実」を持たなければ、人は思考することができない。なので、Aのような寓意は肯定されるべきだ。また、その後に反復される「自己を収斂に導く」寓意も肯定されなければならない。

その中で、人間が寓意らに飲み込まれないためにできる唯一の手法は、「目に見えるものをそのまんま飲み込む」ことだと、騎士団長は言っている。寓意らに飲み込まれてもいいのだ。けども、それに飲み込まれて自身が不能に陥るのであれば、その寓意ら(寓意・メタファー・イデア)の進行や信仰をいったん止めてやらねばならない。そのためには、事実を「見たまま」にインプットする必要がある。そうすれば、収斂する寓意らの進行を抑制することが可能だ。その抑制が、別の場所へ連れて行ってくれる。上の例で言えば、C⊂B⊂Aで示される部分「以外」の寓意らに気付かせてくれるということだ。それらに気付くためには、なんといっても十分な時間が必要になるだろう。


自分を理解しながら嘔吐する

さまざまな時間で経験したことは、自分の本質的な寓意、つまりは人生をナンセンスにしないための「参照先のない事実」の発端として現われる。時間経過の中で、その寓意が作られる最中が判明したり、その発端自体が何なのかをなんとなく悟ったりするということだ。主人公には、そのような時間が確かにあった。(数か月に及ぶ東北・北海道の一人旅)その時間を過ごす最中には分からなかったかもしれない。けれども、今振り返ってその時間を考えてみれば、やはり自分の中には「いくら拭ってもぬぐい切れないような何か」があるのではないだろうか、と思い返すことができる。そのような経験は誰にでもあるはずだ。場面は問わない。ふとした瞬間に、そのように思い返す人も少なくはないだろう。

このような作業の中で主人公は、自らの内に、つまりは寓意の中に、今は亡き「妹」を発見するに至る。


イデアの存在。イデアの居所。

イルカには『まっさらなイデアが均等に存在する』のであれば、人間には『極彩色のようなイデアが不均等に存在する』のである。イルカと人間、どちらのイデアは望ましいかという議論はナンセンスである。そもそも、イルカの気持ちになれる人間はいないのであるし、人間の気持ちになれるイルカは居ないのであるから。

騎士団長が言うように、イデアがあるかどうかという議論はそもそも議論の発端から結論が出ているようなものなのだ。議論が発生するということは、議題に挙がっている事実は存在していなければならない。イデアが議題に挙がっている以上、イデアは「存在していなければならない」のである。村上春樹の言うイデアは観念的なものであるのだから、それは誰にでも存在している不均等なものなのである。

私個人的には脳を主軸に置いた議論や事実はあまり好まない。往々にして、自然科学が一般にも専門にも知れ渡っている現在では、脳とは分かりやすい事実であるのだから。脳の働きは、全ての行動論や認識論、遺伝子論を司る司令塔のようなものであるという認識が流布しているからこそ、私たちは「多様性」というような非特異的なファクターをどうにか受け止めて生きることが出来ている。こういう側面を考えていると、脳領域の事実は、まるで宗教のように映る。しかし、非常に客観的な基盤によって観測されるサイエンスを全否定することもナンセンスである。だからこそ、「脳」という話題が出る際には、少し注意して耳を傾けなければならない。

私たちは、脳によって見る世界に生きている。そうかもしれない。しかし、脳に見せられている世界には、たしかに「脳」も存在するし、さまざまな「学知」が存在するし、「私自身」や「認識」「行動」「思考」「嗜好」…多くのものが存在している。自然科学的な思考を基盤とする今の人類は、逆説的に言えば、全てを信じる必要がある、と言えないだろうか?自然科学を全否定する人なら、全てを信じる必要はないだろう。しかし、そうなれば「脳」「学知」「私自身」「認識」「行動」「思考」「嗜好」…について、「信じるに値しない理由を列挙しなければならない」。はたして、両者の立場はいかように接近しうるものなのであろうか。


愛を自由にすること。自由の愛を信仰すること。

自由になるということ。それは、不自由から自由になるということである。不自由さに囚われている状況から自由になるために不自由から逃走をする、ということである。不自由さを感じるタイミングや、量的な時間などは、いろいろなパターンがあるだろう。ここで分かりやすい例を挙げるとなれば、期間限定品を手に入れるという事態であろうか。期間限定であるので、今ここで買わなければ、「この期間限定品を手に入れることができる」自由を失ってしまうことにつながる。それは、不自由である。なので、期間限定品を買って、自由を手に入れるのだ。期間限定品自体が重要なファクターであるのではなく、提示される「期間限定」という不自由から解放されるためにその品を手に入れ、「期間限定ではない」品に変化させる必要があるのだ。宙に浮くうたい文句自体に踊らされ「期間限定品」を手に入れた気分になる。しかし、この品物自体には永続的な興味や好感が注がれ続けるわけではないのだ。この品物には、「自由」に永続性を付与することができない。

自由を追い求めることで自由は手に入るのだろうか?追い求めることをしなければ、そもそも手に入らないだろう。自由を欲望する者だけが、自由を手に入れることが出来るのは、想像に難くない。しかし、自由の中身によっても、この疑問に対する回答は異なってくる。そして、中身によっては自由を追い求めることで、自由から遠ざかってしまうこともある。今まで話題に出ていた寓意やメタファーやイデアなどは、それら自体の自由を追い求めることで、逆に何らかのポイントに収斂してしまうだろう性質がある。何の制約もなく自分の思う通りに自由に「自由」を追い求めることとは、はたして自由的な事であろうか?その自由は、限定された自由になっていないだろうか?よくよく考える必要があるだろう。

限定された自由を手に入れた者は、自分の頭に拳銃を突き立てている状況であるかもしれないのだ。もし拳銃を頭に打てば、自分は死ぬ。つまりは、そういうことを比喩している。


色を受けいれる/免れること

免色の表現しがたい雰囲気や態度とはつまり、「通例への反抗」または「自身のイデアへの反抗」であった。当時のロシア的に言えば、ロシア人の通例に対する「バカげた行為」である。自分自身の輪郭を知るためには、同じ価値観を共有する空間でむやみに時間を過ごしてはならない。私自身がその価値観の輪郭のまま時間を共有することで、自身に虚偽の輪郭が形成されてしまうからだ。虚偽の輪郭により私の観念が決定され、その観念に動かされる事態に繋がっていってしまう。虚偽の輪郭はどこまで行っても虚偽なのであるから、いくら同じ価値観を共有する空間を漂っていたとしても、「私」を見つけることはできない。免色はそのことについて、無意識に理解していたのだ。私の輪郭、価値観を再構築するためには、今に存在する価値観の空間から脱する必要がある、と。その価値観から脱するときは、非常に強い痛みを伴う。多くの人の価値観を間接的に否定することに繋がるからだ。けれども、否定しその価値観から身を引かなければ、自身に降り注ぐあらゆる意味を真の意味で受け取ることはできない。「気持ち悪い」も「かわいい」も「醜い」も「理解できない」も「なるほど」も…どのような形容や感想も、生感を持ったものとして受け取ることはできないのだ。それらを受け取ることで初めて、私自身の輪郭や価値観が構築されうる。免色は、極彩色から免れようと行動する。主人公は、極彩色に迎合するように行動するのだ。


メタファーの集積としてのイデア

観念を決めうるのはイデア自身である。ある事実に対して、どのような態度を示すかは観念自体がきめることである。そして、その観念自体は自分自身でもある。固定的な観念を身にまとったマネキンとしての自己、ともいえるだろう。マネキンとしての自己は、そのマネキン以上の事実を付与できない。マネキンはマネキンとして、固定的に存在することしかできない。ある事実に対し別のモノの見方を得るためには、別の視野から見たことを学ぶだけでは、決してそれを得ることはできない。別のモノの見方を得るには、「騎士団長を殺さなければならない」。つまり、イデアを殺さなくてはならない。

ある事実を別の角度から照射して観測する時、別の側面は見えないでいるままなのだ。とある部分を見ようとしてそれを観測したとしても、また別の部分は隠されたまま認識することができない。認識できたこと、認識できなかったことはそのまま二項として自己の中に分類されて放置される。そうなってしまえば、ある事実は「認識・観測できたこと」を中心に形成され、自己に落とし込まれることとなる。この、ある事実に対する観測と認識のサイクルは、ある事実を「知る」ことに繋がってはいかない。つまり、別のモノの見方によって期待された「事実の多様性」は、このサイクルによって蔑ろにされる。

騎士団長を殺しても、騎士団長は存在していた。つまり、騎士団長は死なない。イデアは死なない。しかし、騎士団長を殺すことで自己が占める騎士団長の割合(現時点でのイデア・観念の割合)を減少させることは可能である。そのような示唆が本著にはあった。しかしながら、イデアを形成するのはメタファーであり、このメタファーは時間経過に伴って次々と現実に結び付く作用がある。騎士団長を殺してイデアの減少を導けたとしても、悠々として落ち着いている暇はないのだ。そして主人公は、時間に背中を押されるように、メタファー通路へと落ちていく。


吉田拓郎『イメージの詩』とメタファー通路

メタファー通路の描写を読んだとき、ふと吉田拓郎の「イメージの詩」にある水夫に関した歌詞を思い出した。以下のような歌詞である。

古い船には 新しい水夫が 乗り込んでいくだろう
古い船を 今 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
なぜなら 古い船も 新しい船のように 新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを

『イメージの詩』/吉田拓郎

古い船に乗る古い水夫は、新しい海の怖さを知っている。怖さを知っているということは、事前のリスク管理もしやすいということである。しかしながら、そのようなリスク管理を十全に行っていれば、真の意味で新しい海をしることはできない。新しい海は、刻一刻と新しい海ではなくなっていくからだ。その時間経過の中で、古い水夫は古い船を動かすことができないでいるままなのだ。古い船も、刻一刻と変化する新しい海に向けて冒険をしなくてはならないのに、それを古い水夫は阻害しているのだ。新しい水夫は、それを阻害しない。なぜなら、「新しい」という性質が古い水夫よりも多く存在しうるからだろう。目の前にある海に対してピュアに行動できるのは、新しい水夫の「新しい」ものに対する敏感さと、海への鈍感さである。

主人公は「古い水夫」であった。その古さには、数えきることが不可能なほどのメタファーがこびり付いている。そのメタファーが、新しい海への冒険を阻害する。それが良いのか悪いのかはわからない。しかし、現状から変容したいという欲望が自分自身の中にあるとするならば、その阻害要因であるメタファーは少ないにこしたことはない。メタファーが少なければ少ないほど、単純なメタファーをそのままの意味として受け入れることができる。単純なメタファーを受け入れることができれば、また別のモノの見方を得た自分自身を得ることができるかもしれない。そのために、騎士団長は殺すほかなかった。そして、イデアは解かれた。解かれると同時に、下級のメタファーである「顔なが」が登場した。単純な、下級のメタファーは、騎士団長というイデアを殺すことで初めて観測することができたのだ。(正確に言えば、いつの日か観測したときと同じように再度観測することができた。)そのとき、主人公は「新しい水夫」に近似する存在となったのだと考えている。

しかし、重要な示唆としてあるのは、結局人にはイデアが存在してしまうという事実であると思う。メタファー通路を通り時間を過ごすことで、別のモノの見方を得ることが可能になる(主人公が離婚した妻と真正面から向き合う行為など…)が、それも別のイデアによってもたらされた行為なのである。行動は認識のうちにあるのだ。けれども、行動も認識もそのような制約から逃れることができないという事態を、ニヒリスティックに描いていないのがこの作品の特徴であると思う。確かにイデア(観念)に自分自身が踊らされているけれど別にそれでいいんじゃないか?、というような軽いノリとして。メタファーを観測するためには、何かの柱を据えていなければならない。観測できるメタファーによって、人は如何様にも変容できる。観測のために必要なのは、寄りかかることができる「柱」だ。その柱は人間に無くてはならないのだ。たとえ変わることが難しくても、それを望みさえすれば変わることはできるのだろうと思う。


「存在」と「思考」の関係

相関主義の根本・本質は、「存在」と「思考」の相関関係にある。「存在」は何かを「思考」する。つまり、「思考」するためには、何かしらの「存在」が必要になるということだ。そしてその「存在」は、さまざまな様式をもち、さまざまな変容可能性が有るような、揺らぎつづける者である。何かを「思考」し、「存在」が行動するときには、「存在」は「思考」に依存しなければならない。この強いつながりとしての「存在」「思考」によって、人の認識や行動は限定された場所に収縮していく。それは悪いことではない。しかし、良いことでもないだろう。

主人公は実用的肖像画家であった。それは序盤に描かれている事実であり、また終盤でも描かれている事実だ。しかし、その在り様は同様ではないのだろう。かつて主人公の「存在」と「思考」は、肖像画のよって措定されていた。肖像画を描くためのテクニック(他者を具体的に読み解きそれを肖像画に落とし込む技術)が、主人公という「存在」を徹底的に規定し、その規定された「存在」によって「思考」を続けることで、行動と認識を繰り返していた。主人公が陥っていた環については、きっとユズ(主人公の妻)も気づいていたのかもしれない。日常の些細な変化から観測される感覚として。私を愛してくれていることは分かる。けれども、本当に「私」をあなたは見てくれているのかしら?あなたはあなたとしてのピュアな「存在」で「思考」した結果、私を愛してくれているのかしら?あなたは、本当にあなたなの?あなたは、もしかしたら別の遠い所に行ってしまっているのではないの?私はユズがこのように感じ、無意識な不安を抱いていたのではないかと想像した。

主人公は、自分自身という「存在」を「思考」から切り離さなくてはならなかった。そういう意味において、東北・北海道への放浪は意味のあるものだったのだろう。肖像画家としての「存在」を切り捨てることで、肖像画を依頼する他者に「思考」を委ねるのではなく、自分自身に対して「思考」する時間として機能していたのだ。最終的にメタファー通路に入ることで、イデアやメタファーの再分配と再構築が行われたように映るが、そもそもこの放浪の時間と雨田の父親の家に住むことになった瞬間から、ある種のメタファー通路に足を踏み入れていたのかもしれない。だからこそ、自分自身を再定義できるような不思議な経験を積むことができたのではないだろうか。



「この世界にはたしかなことなんて何ひとつないかもしれない」
「でも少なくとも何かを信じることはできる」

終盤のこの言葉にこの物語が集約されているように思う。たしかな「存在」もいないし、たしかな「思考」もないのだ。主人公は、その事実を身をもって実感した。そして、その実感を確かな事実として、「少なくとも何かを信じることはできる」として「思考」するにいたった。このように「思考」する、主人公という「存在」は、とりあえず何かを信じることのできる柱を探すに至り、離婚調停中だった妻とよりを戻すこととなる。関係を再構築できたのは、主人公という「存在」が「思考」を再措定できたからほかならない。騎士団長というイデアとしての「存在」を殺すことで、メタファーを直に観測し、それを再措定できたからほかならないのだろう。

あらゆる意味が自分の前を通り過ぎていき、その意味に思考させられる今の時代。その一連の流れによって、自分自身を措定するメタファーを発見し、後の観念としてのイデアに成形されていく。それ自体は悪いことではないだろうと何度も言った。しかしながら、「私自身」が「私」について分からないという事態を放っておくわけにもいかないだろう。意味の多様さを観測することとは、自己の多様化を進めることにつながることはない。多様な自己は、強硬で貧相な自己を措定するしかない。

人は、この「騎士団長殺し」から学ぶべきことが多いと感じる。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?