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この世界には確かなことなんて無いかもしれない。けれども、何かを信じることはできる。「騎士団長殺し」/村上春樹
『騎士団長殺し』面白く、不思議で、洞察深い物語でした。
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』『街とその不確かな壁』に続き、村上春樹は3作目です。『騎士団長殺し』の前に読了した2冊で、村上春樹の『手腕』的なものと『文章技巧』的なものと『軸』みたいなものが、概ね把握できたのは、『騎士団長殺し』を読むうえで有益でした。
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今回は読みながらその瞬間に思ったことをツイートし書き留める作業をしてみました。140文字という制限とフォロワーの目があるということもあったので、端的に『纏める』ことを目標にしていましたが、すっかり長くなってしまいました。私の「長くなってしまった」という態度が、この物語が面白かったということを説明しています。(実況内容の整合性は「一意見」として扱ってください。)
1400ページに及ぶ文章の中には、いろいろな「点」が施されています。その「点」は回収されることもあれば、宙に浮いてよくわからないまま放置されていることもある。そして、その「点」が非常に重要な事実を物語っている可能性もあったりする。ずっと飽きさせない工夫があちらこちらに散りばめられています。
読書実況まとめ
主体をなくした主人公が『騎士団長殺し』を見つける
具体を捉えようとすると抽象ではなく、抽象を捉えようとすると具体ではない。それはその通りで、具体は客体・イメージであり、抽象は主体・印象だ。
— だい (@kuro_kg) April 28, 2023
抽象画を専攻していた主人公は流されるまま実用的肖像画家に落ち着き、それを仕事とする。
この移ろいは、主人公が主体・印象を欠いていくように映る。
主体・印象を欠いた主人公は山間の静かな家屋で筆を手にアトリエに籠るも必然的なきっかけに恵まれず時間を過ごすことになる。そこで見つけたのが日本画調で描かれたドン・ジョバンニの1つのシーン。その画のタイトルは『騎士団長殺し』。その画のとある奇怪な人物に心囚われ、思索に耽ることになる。
— だい (@kuro_kg) April 30, 2023
他者を目の前にすると鋭い洞察力を発揮するのに、自分のことになるとそれが不能になる。つまり、主人公の主体・印象は主体にあらず、客体としての特異で依存的なものとして自己の中に保持しているということになる、だろうか。
— だい (@kuro_kg) April 30, 2023
そのため、自分自身の発端から「必要な絵」を書くことができないでいる。
騎士団長殺しに描かれた暴力的なシーンの「真意」が不明であって、その著者の事情も不明である。
— だい (@kuro_kg) April 30, 2023
画の中では、奇怪な男は存在しない地下から顔を覗かせてそのシーンを主人公と「共に」観察し思索する光景に見える。
『「絵画を観察する私」を観察する私』=「騎士団長殺し」、ではないか。
そういう思考の論理があるから、「主人公はこの地中から首を出す男に心を囚われ、その男のことや男がそこから顔を出す地中の世界がどのようなものなのかを気にせざるを得なくなった」。それが、どのようなものかは読み進めないとわからないし、それの意味するところもわからない。
— だい (@kuro_kg) April 30, 2023
『騎士団長殺し』は雨田の父、雨田具彦の作品である。そして、その作品には雨田具彦の個人的な心残りが反映されている。その心残りとなった事実は、公に公表することが許されない。そのような状況で、雨田具彦は自身の絵画的技術を使うことで、その心残りであった事実を「寓意」として絵画に収めようと考え実行した。その成果物がこの『騎士団長殺し』である。
実用的な肖像画家として成功した主人公。その成功の反面、画家として大切な「主体性」みたいなものが徐々に欠落していく様子が「肖像画家として成功する」ことに描かれている。これが本著の最初のメタファーだろうか?
『肖像画家としての成功によって主体が欠けていく。』その最中に「騎士団長殺し」という強烈な寓意を含んだ絵画を発見したこととは、主人公にとっては最終的に福音だったのだろうと思う。
名もなき指揮者とオーケストラの演奏
「肖像画すら描けなくなってしまうかもしれない」。主人公は突然の肖像画の依頼にこのような発言をする。依頼主は、『肖像画を抽象まで掘り下げ、それを翻訳して唯一無二の肖像画に仕立てることができる画家』として、おそらくは主人公に依頼しているはずだ。
— だい (@kuro_kg) May 1, 2023
その依頼人の容姿は『真っ白』であった。
依頼人は、ドン・ジョバンニの公演を各国の各指揮者で実際に見聴きしたことを話す。その中で印象的な公演を取り上げて話すものの、団体名も指揮者名も有名ではなく思い出せないという。この依頼人自体の印象や容姿は『真っ白』だが、そのエピソードからは「白」という特有な色を纏う人物のように映る。
— だい (@kuro_kg) May 1, 2023
ロック哲学の「タブラ=ラサ」の白紙経験論のような流れがここにあるのかもしれない。全ての意味と感覚は神的なものに囚われているのではなく、真っ白な白紙の上に追記されたり削除されたりするものなのだと。今の私と過去の私の感じ方はそりゃ違うだろうという言葉にしたら当たり前の観念。当たり前…
— だい (@kuro_kg) May 1, 2023
主人公に肖像画を依頼した免色は、『ドンジョバンニ』の公演に関して以上のように語る場面があった。つまりは、免色は有名な指揮者や有名なオーケストラにあるブランド性や話題性に左右されないという性質が、少なくとも他の人より多くあるということ。そもそも『ドンジョバンニ』を各国で色々聴いたという経験がかなりとがっているし、彼の好奇心旺盛さを伺えるエピソードである。
つまり、『1つのものごと(ドンジョバンニ)に対しての視野角を広げる能力を持っている』これが免色の特徴である。この免色の特徴は、終盤に登場する「メタファー通路」を通過する主人公も発揮する力である。
不思議な鉦の音とその正体
心臓病で亡くなった妹が狭苦しい嘘で固められた棺の中に入れられているのを目の当たりにした経験と、『祠の裏にある塚の中から聞こえる不規則な打楽器音』の2つの体験は、お互いに呼応している。
— だい (@kuro_kg) May 4, 2023
主人公にも分からない「分からないこと」を、主人公自身が主人公に知らせようとしている。
それは、『引越し先で家具を並べた時の体験』みたいなことに似ている。当時の家具の配置と、その配置にした理由はもはや今の私には分からない。
— だい (@kuro_kg) May 4, 2023
例えば、本棚の配置とか…。
分からないことの正体は、分からないことの1つである『それ』を何故なんとなく思い出すことができるのか、ということ。
『分からないなぁ』と、思い出すことができる事実と、本当に忘却してしまう事実の2つがある。前者をなぜ『分からないなぁ』と思い出せるのか、それが分からないのだ。もっと思ったり考えたりしたことが他にもあるのに、今の私は何故それではなく「これ」を思い浮かべてしまうのか、という問題。
— だい (@kuro_kg) May 4, 2023
鉦の音は「主人公に分からないことが何なのか知らせようとしている」のではないかと考えながら読み進めていたが、概ねその通りであったのではないかと思う。主人公の無意識的な表層が、あの石室で表現されていたのであり、その石室から聞こえてくる鉦の音とはつまり、「私自身が鳴らす音」であったということだ。そのきっかけとなった出来事とは、『騎士団長殺し』の発見である。
免色という人間
結婚や血縁にも興味がない男が、一夜の情事をきっかけにしてそれらに心とらわれる、ということ。そのために、肖像画を依頼したこと。それは、その肖像画を描く主人公自体の急速な「変容」を導いていくのかもしれない。
— だい (@kuro_kg) May 4, 2023
自前の好奇心の強さでビジネスでも成功を収めた免色。彼のその性質が、自身の根底にある何かを揺るがすことがある。それはつまり、「自分自身を疑って追究して発見する」ために惜しみなく行動することが、巡り巡って自分を変えることに関する繋がりを生み出し、それを確かに繋ぎ合わせることのできる行動力を持っており、その行動を推し進める好奇心がある、ということなのだ。
(彼は真っ暗な石室に一人放置されることを望んだ。彼は過去の経験を今に再現することで今の認識や行動を自律的に操ることが出来るように尽力したのだ。)
その彼の中にある認識・行動論により、「娘かもしれない女の子」の近所に引っ越すことを促し、高性能双眼鏡で彼女の様子を眺めるという行動に移したのだ。(文字にするとやばい男だ。)
はたから見たらやばい男である免色は、主人公に肖像画を依頼する。主人公はこのやばい男に色々と思案するが、やばいというのは免色という人物のほんの少しの表像にすぎない。その表像を観測するのは主人公であり、主人公の物差しなのである。そのようなことに、主人公は徐々に気付いていく。
その鉦を鳴らすのは誰か
奇妙な鉦の音と即身仏の話について。鉦の音を頼りに、その音の元探るべく塚を掘り起こす場面。結果、その塚には空洞があり、鉦があった。しかし、その鐘を鳴らした「誰か」はいなかった。即身仏もいなかった。即身仏のような、衆生を救済する「誰か」はいなかった。
— だい (@kuro_kg) May 5, 2023
ここでは、主人公の内的な問題は未解決のまま宙に浮かんでいることを示している。
— だい (@kuro_kg) May 5, 2023
『こんなことをしなければよかったんだという思いを私は持たないわけにはいかなかった。あのままの形にしておくべきだったんだ、と。しかし、その一方で、そうしなければならなかったというのもまた事実だった…。』
石室が各々の「無意識」を表現しているのであれば、その石室で鉦を鳴らしているのは私自身ということになる。主人公が聞いた鉦の音は主人公が鳴らしたものであるし、免色が聞いた鉦の音は免色が鳴らしたものなのである。しかし、現時点での主人公は鉦を鳴らした「責任」みたいなものを、全体性のある何か(ミイラ・即身仏)に課すことによって「責任」みたいなものから逃れることを無意識に行っていた。誰か助けてくれるような気がしたのに、そこには誰もいないのだ。
しかし、石室発掘を「しなければよかった」という思いと同時に、「しなければいけなかった」という思いも、主人公の脳裏に浮かぶこととなった。
抽象的な肖像
依頼された肖像画のようなものを手渡す場面。依頼主は深く喜ぶも、当人としては素直に喜べないでいる。つまり、『今にある激しい喜びの感情に物語られているように見えてならない』ことを主人公は依頼主の様子から読み取って、果たして正しくかけているのかどうか、不安がっている。
— だい (@kuro_kg) May 7, 2023
生身の人間は「立体を帯びないただの影」として見て過ごしている主人公自身には、その洞察的な肖像画を描けたかどうか不安であるのであり、つまりは自分に疑心暗鬼になっている。洞察的に依頼主を抽出したものになっているのかどうか。またその画は、私のエゴしか写しとっていないのではないか。
— だい (@kuro_kg) May 7, 2023
以下の面白い暗喩と対比
— だい (@kuro_kg) May 7, 2023
『過去に妹が亡くなり機会的に彩られた棺を見たという主人公の記憶』
『古い石室の中で誰かが鳴らす鉦の音』
『その石室に入ってみる依頼主』
『意識の海底を探るように肖像画を描いた主人公』
それらの経験や印象を『ミイラ』『即身仏』と呼んで無意識に具体化している。
もはや肖像画を満足に書き上げることは不可能なのではないかの思案していた主人公だったが、無事に免色の肖像画を描くことに成功した。その状況を想像してみる。主人公は、肖像画を描くことに自信を失っていた。その理由は、肖像画は他者を具体的に見つけ出してそれを描写し続ける作業を必須とするからである。画家である主人公自身の主観を完全に退けながら、モデルを認識し、その中にある洞察的に深い部分を読み解く必要がある。その作業の反復の中で、主体としての自分自身が「どこにいるのかわからないでいる」のだ。肖像画を描き続けることで肖像画を描くこと自体は上達するが、その肖像画家的技術が彼自身の主体性を貶めることに繋がるのだ。
『騎士団長殺し』を発見したこと、石室を掘り返した経験をしたことなど、この時点で主人公のイデアやそれを構成するメタファーは徐々に明らかになってきているため、もう描けないと思っていた肖像画を描き切ることが出来たのだろう。しかし、それはまだ確信に近い実感ではなかったのだ。
騎士団長・イデアとの遭遇
離婚した女のことを忘れられないと発言したその日の深夜に、主人公は居間で『騎士団長』に遭遇する。騎士団長は自身のことをイデアであると語る。また私の騎士団長風の格好はかりそめである、と。そして、騎士団長自身も自分のことはよくわからないでいる。しかし、確固たるイデアである。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
騎士団長は、主人公のことを「諸君」と呼び、それに主人公は違和を覚える。つまりは、主人公は複数いる。主人公の主人公たらしめる何かは複数存在する。それらを組み立てて主人公は構築される。イデアの騎士団長はそれを知っている。だから、諸君と呼ぶ。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
イデアは騎士団長として1人のみしか存在してはならない本質なのだから、騎士団長以外に騎士団長は存在しない。だから、複数の何かを保有する個体(つまりはイデアより低次元の何かを複数保有する個体のこと)を、諸君と『呼ぶことができる』。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
しかもその騎士団長は60㎝くらいの小さな人間の風貌をしていた。その体には合わない立派な白い装束を纏っているのだ。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
つまり、突然主人公の前に現れたイデアは、幼少な、不揃いなイメージを持った何かなのだ。それを、『イデア』であると呼称するのは、はたして最適なのだろうか?
実は、最適かどうかここでは語れない。それは、読み手の『イデア』に左右されるような、本質的ではない語りだからだ。この問題は傍に据えるしかない。けれども、私のイデアを信用するのであれば、この騎士団長は成長するだろう。そして『死ぬまで』主人公の周辺に身を寄せるだろう。そんな気がする。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
まず、騎士団長の様相についてはこの時点での私の読みは間違っていたらしい。騎士団長は絵画からそのまま表現されている(主人公はこの絵画に書かれた縮尺の騎士団長しか知らないのだから当然である)。そのため、絵画で描かれた騎士団長の全長に合わせて現実に顕れたということになるのだ。
また、ここで使用される「イデア」という用語は、プラトンが説く「イデア」とは異なるらしい。つまりは、個々の集合体・観念としての「イデア」なのである。よって、このイデアは人の数だけ存在しうるものである。(しかしながら秋川まりえは主人公と同様に「騎士団長」を見ている。)
そして、イデアは最終的に死滅する。主人公の手によって刺殺される。なので、当時の私が思っていた騎士団長の姿とは異なっていた。けれども、100%間違いというわけではない。人のイデアを完全に消し去ることはできない。それは、そのイデアは「他者の(私自身に対する)認識」をエネルギーにしていると後々明言されることにある。イデアには他者が必要である。それならば、個々の集合体・観念としてのイデアは完全に消えることもないし、時間が進む中でその姿形は刻一刻と変容をとげるはずである。そういう意味では、60センチという小さい騎士団長の姿は後に変容するだろうということに気付くことも可能だろう。
主人公のものとしての騎士団長
イデアの騎士団長との会話で印象的なのは、主人公が見聞きした些細な場面を騎士団長が即座に『取り入れたように見える』ところ。それが正しい読み方かはわからないが、主人公の経験が即座に呼応して、イデアに反映されているように映る。つまり、騎士団長は主人公のイデアとして現実に存在している?
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
また、主人公は騎士団長に「即身仏じゃなかったの?」と聞く。即身仏という存在であれば、主人公の想像と一致するのに、なぜ騎士団長の姿なのかを問う。騎士団長は「わからない」と回答した。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
つまりこれは、『主人公自身が、なぜ自分が観測できるイデアが騎士団長の姿なのかわからないでいる』のだ。
過去に見た映画などの俳優の表情や動作を思い出し、その表情や動作を騎士団長が模しているように見える場面が多々あった。「なぜか騎士団長はとある俳優に似ているような表情をする。イデアなのだからその映画を見たこともないだろうし、真似をしているとも思えないけど。」と、このような具合で表現されていた。
過去に見聴きした経験は、今の経験を語る術になり得ることを私たちは知っている。しかし、知っているからと言って、それを自律的に意識的に操ることはできないということも知っている。経験「する」と同時に、過去の経験は経験「される」のだ。
肖像画は「過去のわたし」
依頼主の肖像画の完成を祝して、豪勢な自宅にお呼ばれされた主人公がそこで見たのは、そこに飾られていた「印象の違う」肖像画だった。それはすでに依頼人のものとなり、私の元にいた頃の過去に記憶していた肖像画とは、全く異なるものになっていた。その画は、その場で真に完結されていた。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
主人公の近接を拒む肖像画は、本来の生命を獲得していた。まるでこの前まで私のものだった女性が、ほかの誰かのものになったかのように。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
何かを見る角度、時間、場所が異なれば、その何かの印象も異なってくる。それは、別の事実が、その何かに内包されている可能性を教えてくれる。
主人公自身が描いた肖像画は、もともとは私の所にあった。(その言葉のままの意味で。)私の手で完成・完結させたそれは、さらに高次元の域において完成させられていた。その肖像画は、別の事実を内包し始めていた。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
つまり、その肖像画自身にしてみれば、再び主人公の思考や行為にさらされることとは、主人公の恣意的な何かによって、再び低次元の何かに引き戻されることになる。それは避けたいはずだ。肖像画も、肖像画自身の拠り所を見つけたのだから。だから、主人公は肖像画から拒否されているように感じる。
— だい (@kuro_kg) May 9, 2023
免色に贈呈した肖像画が、主人公の今の状況を教えている。肖像画は自分が作成している段階では自分のものであったが、贈呈した今ではそうではない。それはまるで、主人公の離婚の経験を思い起こさせる。もともと自分の妻だった女性が、私のもとを急に離れることになって離別する時のことだ。
読了してからこの場面を振り返ると、肖像画自身が新たに免色との関係を構築し始めている描写からもわかるように、肖像画には新規のメタファーが付け加えられているといえる。この肖像画から拒否されているように主人公は感じた。そのように感じた主人公は、この時点でこの肖像画を詳しく思案すれば、自己分析が可能だったのだ。私自身も、この肖像画と同じなのだ、と。私もこの肖像画と同じように、多くのメタファーが強い磁気を帯びて離れず自身を取り囲むように存在しているのだ。
主人公も、面倒くさいと思うことには、深く首を突っ込まない性格である。それは、首を突っ込めば「面倒なことが起こる」と分かっていてそれを避けるためだ。それがあらかじめわかるためには、過去の経験を照会しなければならない。経験の照会先が増えれば増えるほど、今の行動は抑制されうるのだ。肖像画は「過去の主人公」とも読める。肖像画も、めんどくさいファクター(主人公)には近寄らないでほしいと思っているのだ。免色との新たな関係に横やりを入れられたくないのだ。
揺らぎのない事実/揺らぎの余地のある可能性
依頼人が主人公に、更なる依頼として「真っ暗な石室に1時間放置して欲しい」ことを伝え、それを両者で実行した時の話。依頼人は、「あなたはその時私を放置すれば私が死ぬことを知っていたのに、なぜそれを実行しなかったのか」という質問を主人公にする。死にたいわけではないとも言う。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
「私があなたなら間違いなく長い時間放置したい衝動に駆られる」とも言う。それは死にたいとか殺したいとかそう言う理由ではなく、『死に近接してみたい』という欲望の現れであった。おそらく、近接する対象は、この時は「死」であっただけで、他の事象への近接も比喩的に含まれるのではないか。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
「死」の本質、イデアは生きている限り不明である。生の途中で臨死を体験するが、臨死後の死は、その死体から直接的経験が語られるわけではない。科学的な死の本質、それこそが現代における「死のイデア」の限界点である。そう言う他ない。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
つまり、何かしらの本質(例えば私自身の成り立ちについて)を知るためには、それほど危険な近接を伴うと言うことだ。その恐怖を乗り越えて初めて、人は自己を克服すると本著にはある。私的には、克服というよりはむしろ上書きの方が適切ではと思う。今の自己の本質を無にすることはできない。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
その話の直後、依頼人の娘かもしれない子供が、向かいの山間の邸宅に住んでいることを主人公に告げる。そして、その娘の肖像画を描いて欲しいこと、それを家に飾りたいことを伝える。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
直前の話から考えるに、依頼人はこの娘が「本当に私の娘なのかどうか」を確定させたいわけではない。
「本物の娘」であると考えている人物にとりあえず近接する方法を、依頼人は単純に考えて実行に移そうとしている。本物かどうかを確定させることは、どちらの結果になったとしても、依頼人は幸福にはならない。であれば、何かに近接して寄り添い、どちらともつかない事実の揺らぎの中に浸りたいのだ。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
『私は揺らぎのない真実よりはむしろ、揺らぎの余地のある可能性を選択します。その揺らぎに我が身を委ねることを選びます。』
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
この意見に主人公は「不自然ではないか?」と考える。肖像画や抽象画を描くには、何かの真実を据え置く必要があることを主人公は知っているためだ。
しかし主人公がたびたび言及する「物の見え方」については絵画や風景等の見え方は一義的ではない、と言う示唆がある。依頼人の肖像画作成に苦戦していた所、何かの超常現象(のように本著にある)により椅子が1人でに移動し、その椅子の位置と距離から新たな可能性を引き出した経験はそれにあたる。
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
主人公の無意識的なその態度や、主人公のことを「諸君」と複数形で呼ぶ騎士団長は、その主人公の「事実は揺らぎのない真実を内包する」という考えにメスを入れていくのではないか?その考えをより自由にするために、組み立てたものを整理整頓する時間が、どこかで現れてくるのではないだろうか?
— だい (@kuro_kg) May 10, 2023
免色が「まっくらな石室に1時間放置してほしい」と主人公にお願いしたことと、その出来事を回顧する場面。ここでは、石室に放置されたい理由は「死」に近づいてみたい、というものだった。「死」というのは、今を生きている我々にとってよく分からないものであるのだ。そのため、純粋に「死」に対する好奇心が免色にはあった。また、過去の経験での痛みや苦しみを再度自分へ課すことで、その時の経験を自律的に操れるようにする目的もあった。ダイエットをするにはダイエットのための行動が必要であり、そのためには体重計に乗らないといけない。体重計に乗って今の自分の体重を知らなければならない。今の私の体重を、否応でも知らなければダイエットは不可能なのだ。
免色は「揺らぎの余地のある可能性」を選択するといった。けれども、主人公はそれに対して「不自然ではないか?」と思った。主人公は、精密な実用的肖像画を生業として生きてきた人物だ。実用的肖像画を描くためには、モデルに対して「確固たる」事実を抽出し、それを絵画的技術によって表現しなければいけない。「事実が揺らいでいれば現実を見ることはできないではないか!」と今までの経験がそのように(「不自然ではないか?」)語らせるのだ。1つの表像や現象には1つの事実「のみ」が対応しているわけではない。分かっていても、そう思うことが出来ないでいる。そのような自分自身の実体に、無意識に気付いていくのだ。(スツールが勝手に動いたり、騎士団長があらわれたりすることによって表現されている。)
自分が当時考えていた、「組み立てたものを整理整頓する時間」とは、メタファー通路での時間経過に表されているのだろう。ここは予想通りだった。(整理整頓という言葉が少し違うような気もするが…。)
何かを「見たまま」にインプットすること
騎士団長は目の前に見えるモノ、それらが真実であり現実であると説く。リアリスティックな思想を持っている。あらゆるものに寓意を感じて読み取ることは、果たして現実ではないのだろうか?おそらく現実だ。しかし、真実(イデア的真実)からは遠ざかってしまう。
— だい (@kuro_kg) May 11, 2023
とある真実や表像に対して1つの寓意を読み取ることに成功したとしても、それはどこまでも寓意であるしかない。そしてその1つの寓意は、自己の中で別の真実を形作ることになる。その真実は、また別の真実を生むことになる。寓意に寓意を重ねることは限定的な寓意や真実に変貌する。
— だい (@kuro_kg) May 11, 2023
『大きな真実はとある寓意によりある点に収斂する。』アレゴリーはアレゴリーのまま呑み込むことができなければ、自己は貧相かつ強固な真実に支配されることになる。まるで、過去に強く愛していた男性のことを忘れられず、その男性の特徴に無意識に執着する男のように。
— だい (@kuro_kg) May 11, 2023
しかしながら、アレゴリーが導く真実は真実ではない、と言うことにはならないだろう。人にはかりそめの柱が必要だ。無では何事も判断することはできない。人生の中に寓意は必要だ。不必要でも付いてきてしまう。その寓意にまみれた真実に対して、いかに鳥瞰図をしたためることができるか否かが問題だ。
— だい (@kuro_kg) May 11, 2023
「寓意によって自己は小さなドメインに収斂せざるを得ない。」寓意はメタファーを必要とする。また、メタファーはイデアを必要とする。つまり、寓意はイデアを必要とする。上述した通り、イデアやそれらを構成するメタファーは変容し続けるものだ。生ものであると言っていい。しかし、変容は「ある時点」に焦点を当てて観測してみれば、変容していないようにも見える。その変容していないように見える時期に、それらの寓意やメタファーやイデアは、他のモノ(表像・現象・事実…)に固着し存在し続けることになる。変容するモノたちは、ある時期を切り取ってその変容したモノ自体に張り付いてラベリングしていくのだ。
とある事実は寓意らによって観測されて観念まで昇華されるけれども、その寓意らとは「とある事実」にしてみれば未来永劫全く不変のものにしかみえないのだ。確かに変容は刻一刻と進んでいくけれども、その変容中の寓意らによって、物事が観測されるわけではなく、ある1点の時期に物事が観測され観念になり、それが終了したころには寓意らは変容しているのだ。つまり、その反復の中で観念(をもつ自己)はあるドメインを目指して収斂することに繋がる。
Aという寓意らの時期にBを観測したとする。すると、寓意らはB⊂A(Bを含むA)に変化する。(なぜB⊂Aになるのか。それは、Bを観測するのはAの範疇のみであるからである。Aの寓意らしか持たない者はそのA以上の寓意を想定できない。)Aという寓意らはBを観測した経験を含むことになる。AとBの有機的な寓意らのつながりが保持されることで、より多角的な物事へのラベリングが可能になる。かつ、このAとBの有機的なつながりは事実を観測する際の豊満さをより強く主張するため、AかつBの寓意らが優先的に多く生き残ることになる。多くの時間をかけて、B⊂Aという寓意らが醸成され、その後にCを観測する。すると、寓意はC⊂B⊂A(Cを含むBを含むA)に変化する。(なぜC⊂B⊂Aになるのか。それは、Cを観測するのはB⊂Aの優先的範疇のみであるからである。B⊂Aの優先的寓意らを持つ者はそのB⊂A以上の寓意を想定できない。)B⊂Aという優先的寓意らはCを観測した経験を含むことになる。B⊂AとCの有機的な寓意らのつながりが保持されることで、より多角的な物事へのラベリングが可能になる。かつ、このB⊂AとCの有機的なつながりは事実を観測する際の豊満さをより強く主張するため、B⊂AかつCの寓意らが優先的に多く生き残ることになる。…以下同様に反復をとげる。自己のドメインは、寓意によって優先的にある点に収斂することになり、強固かつ貧相な寓意らを形成することに繋がっていくのではないか?
しかしながら、ここに真実がふくまれていないということにはなり得ない。上記した例のAという事実は、私自身の中にあらかじめ含まれていなければならないからである。何かしらの事実や信じるものが全くないという人は存在しない。「無」の状態で、生を維持することは困難である。そもそも、「無」とは存在しないということと同義である。(無というものが存在している、というのはナンセンスである。)なので、人にはAという「かりそめの事実」が必要なのであり、人はそれを必ず持って生まれてくるのだ。それが真実かどうかはさておき、そのような「かりそめの事実」を持たなければ、人は思考することができない。なので、Aのような寓意は肯定されるべきだ。また、その後に反復される「自己を収斂に導く」寓意も肯定されなければならない。
その中で、人間が寓意らに飲み込まれないためにできる唯一の手法は、「目に見えるものをそのまんま飲み込む」ことだと、騎士団長は言っている。寓意らに飲み込まれてもいいのだ。けども、それに飲み込まれて自身が不能に陥るのであれば、その寓意ら(寓意・メタファー・イデア)の進行や信仰をいったん止めてやらねばならない。そのためには、事実を「見たまま」にインプットする必要がある。そうすれば、収斂する寓意らの進行を抑制することが可能だ。その抑制が、別の場所へ連れて行ってくれる。上の例で言えば、C⊂B⊂Aで示される部分「以外」の寓意らに気付かせてくれるということだ。それらに気付くためには、なんといっても十分な時間が必要になるだろう。
自分を理解しながら嘔吐する
主人公の周りに寓意がふりかかる。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
過去に亡くなった13歳の妹と同い年の肖像モデルの女の子。また、離婚調停中の妻についても、亡くなった妹が今も生きていればその妹と同じ年になる。離婚については心の引き出しの奥の奥にしまっているつもりだったが…
とあるワンナイトの情事をきっかけにその無意識さを意識するようになった。その内容は、離婚に対する怒りのような、叫びのような、どうしようもない感情であった。平気さを繕うことで、その感情を無理やりに折り合いをつける自分を『発見』しつつあるのだ。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
妹の存在は、主人公の中で寓意の発端になっている。過去にあった妹の存在は、「他の物事に仮に託すことによって、それを寓意的に顕されている」。今は亡き妹の発言や行動は、非常に際立って主人公を構築している。その構築物は、主人公の真実や表像を規定している。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
主人公が自身の人生を比喩的に語る場面がある。また、その比喩的な語りを否定的に捉える場面もある。実際的または実物的な人生は、見たままのものであるのだから、比喩的な論理で語ることは、不必要ではないかと。今まで呑み込まれてきた出来事は、そのままの出来事として受け取ればいいではないかと。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
それを完璧にこなすことができないでいるのは、そこに多くの「単純じゃないファクター」が潜んでいるためであり、それを分かっているからこそ、主人公は何かを比喩的に語る他ないという示唆がある。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
限定された人生は簡潔だが、それでいいのだろうか?何か良くないこともあるのではないか?
自分の中に自分しかいない人生なら、それは実物的な語りでスッと済むはずである。しかしそうはならないと人は直感的に理解している。自分の人生の中には、自分ではない何事かが多すぎる。それを論理的または整合的に並べることは、ほとんど不可能なのだ。
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
『自分のことが理解できたらいいと思う。』
— だい (@kuro_kg) May 12, 2023
相手を理解し解釈しながら絵を描くことで、絵の中に自分を発見していく。
そして、絵の中の自分によって、現実の自分を裁く。
自分を鳥瞰して裁き、自身に嘔吐し、痛みを感じ、そして次の時間を生きていく。
これが「自己を理解する」こと他ならない。
さまざまな時間で経験したことは、自分の本質的な寓意、つまりは人生をナンセンスにしないための「参照先のない事実」の発端として現われる。時間経過の中で、その寓意が作られる最中が判明したり、その発端自体が何なのかをなんとなく悟ったりするということだ。主人公には、そのような時間が確かにあった。(数か月に及ぶ東北・北海道の一人旅)その時間を過ごす最中には分からなかったかもしれない。けれども、今振り返ってその時間を考えてみれば、やはり自分の中には「いくら拭ってもぬぐい切れないような何か」があるのではないだろうか、と思い返すことができる。そのような経験は誰にでもあるはずだ。場面は問わない。ふとした瞬間に、そのように思い返す人も少なくはないだろう。
このような作業の中で主人公は、自らの内に、つまりは寓意の中に、今は亡き「妹」を発見するに至る。
イデアの存在。イデアの居所。
久々のイデアである騎士団長が主人公の前に現れる。イデアとは何かという話になる。『イデアは存在するか?騎士団長は存在するか?』騎士団長は、そもそもその問いがナンセンスであると説く。存在の有無を語れば、その語りはその存在を思考することにつながる。
— だい (@kuro_kg) May 14, 2023
なので、存在しないものは実際に存在する。存在しないものは存在しない。イデアは顕れている。だから問いはナンセンスなのだ。そしてイデアは他者と認識をエネルギーにし存在し得ている。ここはイルカの脳と比較される。イルカは脳を停止させることができる代わりに、進化をやめた。
— だい (@kuro_kg) May 14, 2023
エポケーではなく、本当の「白さ」を、イルカは脳みそに施すことができる。つまり、つるつるの真っ白な脳みそには、「白さ」しかなく、他のイルカの脳みそも同じく「白い」のだ。そのような脳と脳のやり取り、他者とのやり取りにおいては、進化を促進させない。精神は亢進しない。
— だい (@kuro_kg) May 14, 2023
人間にはイデア(みたいなよく分からないこと)を考えうる脳が実際的に存在している。大脳皮質のとある部分を少し用いて、そのようなよく分からないことを難なく思考し表現する。そんな人間が、90億人存在する。それぞれに、他者とのやりとりが存在する。
— だい (@kuro_kg) May 14, 2023
イデアのような形而上的存在は、面倒な存在でもあるだろうし、またそれは人間が何かを思考したり、認識したり、次のステップに進んだりするために必要な要素であったのだ。イルカにはそれが存在しない。適切に表すなら、『イルカにはまっさらなイデアが均等に存在する』と言える。
— だい (@kuro_kg) May 14, 2023
イルカには『まっさらなイデアが均等に存在する』のであれば、人間には『極彩色のようなイデアが不均等に存在する』のである。イルカと人間、どちらのイデアは望ましいかという議論はナンセンスである。そもそも、イルカの気持ちになれる人間はいないのであるし、人間の気持ちになれるイルカは居ないのであるから。
騎士団長が言うように、イデアがあるかどうかという議論はそもそも議論の発端から結論が出ているようなものなのだ。議論が発生するということは、議題に挙がっている事実は存在していなければならない。イデアが議題に挙がっている以上、イデアは「存在していなければならない」のである。村上春樹の言うイデアは観念的なものであるのだから、それは誰にでも存在している不均等なものなのである。
私個人的には脳を主軸に置いた議論や事実はあまり好まない。往々にして、自然科学が一般にも専門にも知れ渡っている現在では、脳とは分かりやすい事実であるのだから。脳の働きは、全ての行動論や認識論、遺伝子論を司る司令塔のようなものであるという認識が流布しているからこそ、私たちは「多様性」というような非特異的なファクターをどうにか受け止めて生きることが出来ている。こういう側面を考えていると、脳領域の事実は、まるで宗教のように映る。しかし、非常に客観的な基盤によって観測されるサイエンスを全否定することもナンセンスである。だからこそ、「脳」という話題が出る際には、少し注意して耳を傾けなければならない。
私たちは、脳によって見る世界に生きている。そうかもしれない。しかし、脳に見せられている世界には、たしかに「脳」も存在するし、さまざまな「学知」が存在するし、「私自身」や「認識」「行動」「思考」「嗜好」…多くのものが存在している。自然科学的な思考を基盤とする今の人類は、逆説的に言えば、全てを信じる必要がある、と言えないだろうか?自然科学を全否定する人なら、全てを信じる必要はないだろう。しかし、そうなれば「脳」「学知」「私自身」「認識」「行動」「思考」「嗜好」…について、「信じるに値しない理由を列挙しなければならない」。はたして、両者の立場はいかように接近しうるものなのであろうか。
愛を自由にすること。自由の愛を信仰すること。
主人公、免色などのさまざまな登場人物の「喪失」が徐々に輪郭を持って現れてくる。「喪失」は新たな何かを希求する。つまりは、当人にとっての柱みたいなもの。その柱に寄り添って安心したいという欲求みたいなもの。その寄り添いを永遠に続けたいという自由への渇望。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
それを保証するものは、宗教でも良いし、過去の記憶でも良いし、昨日みたリアルな夢でも良い。それらを、心の内から信仰することが早急に求められるのだ。信仰は、人々を自由にする。しかし、自由自体は信仰という柱についたリールで飼い慣らされる。自由に信仰しながら、信仰に飼い慣らされる。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
主人公の結婚生活の破綻についての免色とのやりとり。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
『あなたの中に何か変更のきかない傾向みたいなのがあって、それが邪魔をしたのか?』
「あるいは変更のきかない傾向みたいなものが欠如していたからかもしれない」
これはつまり、信仰は自由を作り、その自由が信仰を強める、という示唆だ。
加齢はより信仰の可能性を高める。その加齢自体をより適切に楽しむためにはどうしたらいいか。この場面で村上は、「芯のある何かをもつ」と「一定期間我を捨てる」と述べ、そのためには「若いうちは伝説にならない」とまとめている(と思う)。柱を携え我を捨てる。それを深いところで行う。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
伝説みたいなものになった後、それが他者に広まれば他者の認識に私が入り込むことになって、その他者に私が呑み込まれる。呑み込まれた私は、他者の認識と同じになる。私が認識する私は、他者のものと同じになる。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
イデアのエネルギー源は、非イデア(みたいなもの)をも作る、ということ。
自由を獲得したら、本当に自由になれた試しはあるのか?よくよく考えるべきだ。自由とは自由ではないかもしれないという可能性を。自由さをもって信仰に足を踏み入れれば、浅はかな本質しか自己の人生に現れなくなるかもしれないと冷静に思考する必要さを。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
自由を獲得したら、本当に自由になれた試しはあるのか?よくよく考えるべきだ。自由とは自由ではないかもしれないという可能性を。自由さをもって信仰に足を踏み入れれば、浅はかな本質しか自己の人生に現れなくなるかもしれないと冷静に思考する必要さを。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
若い天才の音楽家が苦悩のエピソードとセットに語られることが多いように感じるのは、そのような訳があって生じていることなのかもしれない。自由に演奏できすぎると、自由に(生きる)伝説として語られ、その語り自体が本人になってしまう、みたいな。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
そもそも、何事においても「今」はまさに今に経験されている。その経験が「今」であると深く心に刻むということ。そんなまっさらな「今」を経験しながら無限の白色の中で日々を過ごすことが大事なのかもしれない。白は200色にとどまらず無限なのだ、と。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
マルクスガブリエルの「意味の場の無限の移行」について。または、カンタンメイヤスーの「絶対的でない絶対者の確立」について。この辺りを思い出さざるを得ない。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
本著では、ドストエフスキー『悪霊』の中の、キリーロフを引用している。彼は、自分が自由であることを証明するために拳銃自殺をする。
— だい (@kuro_kg) May 15, 2023
自由になるということ。それは、不自由から自由になるということである。不自由さに囚われている状況から自由になるために不自由から逃走をする、ということである。不自由さを感じるタイミングや、量的な時間などは、いろいろなパターンがあるだろう。ここで分かりやすい例を挙げるとなれば、期間限定品を手に入れるという事態であろうか。期間限定であるので、今ここで買わなければ、「この期間限定品を手に入れることができる」自由を失ってしまうことにつながる。それは、不自由である。なので、期間限定品を買って、自由を手に入れるのだ。期間限定品自体が重要なファクターであるのではなく、提示される「期間限定」という不自由から解放されるためにその品を手に入れ、「期間限定ではない」品に変化させる必要があるのだ。宙に浮くうたい文句自体に踊らされ「期間限定品」を手に入れた気分になる。しかし、この品物自体には永続的な興味や好感が注がれ続けるわけではないのだ。この品物には、「自由」に永続性を付与することができない。
自由を追い求めることで自由は手に入るのだろうか?追い求めることをしなければ、そもそも手に入らないだろう。自由を欲望する者だけが、自由を手に入れることが出来るのは、想像に難くない。しかし、自由の中身によっても、この疑問に対する回答は異なってくる。そして、中身によっては自由を追い求めることで、自由から遠ざかってしまうこともある。今まで話題に出ていた寓意やメタファーやイデアなどは、それら自体の自由を追い求めることで、逆に何らかのポイントに収斂してしまうだろう性質がある。何の制約もなく自分の思う通りに自由に「自由」を追い求めることとは、はたして自由的な事であろうか?その自由は、限定された自由になっていないだろうか?よくよく考える必要があるだろう。
限定された自由を手に入れた者は、自分の頭に拳銃を突き立てている状況であるかもしれないのだ。もし拳銃を頭に打てば、自分は死ぬ。つまりは、そういうことを比喩している。
色を受けいれる/免れること
『コップにはまだ水が16分の1も残っている』という言葉が頻繁に出る。これはつまり、16分の1の水に対する態度の問題だ。「も」なのか「しか」なのかという認識の問題。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
ティンパニの16分音符の出番を、どのように認識し、どのように表現するか、という問題に似ている。
ロシア人の通例に対する「馬鹿げた行為」をドストエフスキーの回想から思い返し、そのあと免色の行動を思い出す。彼は随分と「馬鹿げた行為」としか思えないことをしたことがあった。それは、通例に対する抗いであった。つまり、免色のイデア的な何かに対する抗いである。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
免色の行為は、過去を振り返るためのことであった。つまり、その都度思い出し、痛み、悲しみながら自分を律するための行為。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
自由になることは、痛みから逃げないということ。過去の嫌な記憶から逃げていたって、再び同じことを繰り返し、後悔するだけだ。免色はそれをしていた。主人公はしていたか?
主人公は、それをしていなかったから(痛みから逃げていた)から、元妻との離婚の予兆に気づけなかったのかも知れない。未成年の少女にも、叔母の何かしらの予兆を感じ取ることができたというのに。子供は目や心が何者にも汚れていない。主人公は、さまざまな経験と認識と知識で「汚れている」。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
その事実は実際に主人公の行動の中に示される。『古い音楽を繰り返し聴き、昔読んだ本を繰り返し読む。』気づいたら新しいものを見聞きしなくなったことに気づく。ある時点で時間がぴたりと停止してしまっていたこと(針がない時計のように)に気づく。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
おそらくはその「態度」の問題なのだろう。実際の音楽や本は、それらを生み出すのもまた人でしかない。その人自体の生み出すものは、たいして「多様ではない」。かつ、音楽も五線譜の音符が自由に飛び回るわけではない。音楽も本も「不自由」だ。それらに対する態度の問題だ。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
この音楽はこうだ!ここの音がうるさい!と打楽器をしていてよく言われるが、よくもまぁ君の基準でその絶対的な価値みたいなものを声を大にして言えるなとは思う。つまりは音の大きさは相対だ。ここはこうだから少し静かに、と言えばいい。そんなコミュニケーションも取れないなら指導者を辞めろ。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
この団の打楽器は音が大きいとかいう意味不明な噂レベルの話にも、辟易している。ちなみに私はまだ短期間しかその団に所属していない時期にそれを言われた。それなら君はよほど小さな音でも楽器本来の音を豊かに鳴らせるんだろうね?と思う。そんなのできるわけないということは重々知っているよ。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
壁にまつわる話も3冊目の終盤に出る。壁は人を守り、そして人を封じ込める作用がある、と。『街とその不確かな壁』の主題にも壁があった。壁の内側に引き篭れば傷付かずに済む。その時点で自分の時間は止まる。それを肯定できるのは時間を動かした時だ。動かさなければ、それはただの怠慢、信仰だ。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
暗黒を生み出す壁の内側に進んで入っていった免色と、過去の記憶により閉所恐怖の傾向がつきまとう主人公の両者の違いは、この点にある。ここは比喩的な対比である。動き辛い時間をどうにか動かす人なのか、それとも今にとどまって時間を停止させたままにする人なのか、という対比。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
騎士団長は「人間界は時間と空間と蓋然性で規定されておる」と言う。けれども、「偶然に規定されてる」とは言わない。なぜなら、イデアが偶然を規定したら、その偶然は必然的に起こってしまうことになる。つまり、偶然を規定したのに偶然は無くなってしまう。だから、その点に対する語りは少ない。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
13歳の少女が行方不明なのは時間空間蓋然性が関わることではあるが、騎士団長なら何かわかるのではないかと教示を懇願する。その際、騎士団長はいくつかの犠牲を預言し主人公にヒントを与えた。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
その少女は主人公の亡き妹、元妻に関わる対象だ。これにより、主人公は大量の血を流すかも知れない。
「30代を無駄に生きるな」という本があった。私自身は、ある時期を何かのために無駄に生きることも必要だと思う。それが必要だったと思えるためには、いつかは無駄と思う時間から「逃げ出す努力」みたいなものをしなきゃならない。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
「無駄に生きて、次に逃げ出せ」ということ。
「30代を無駄に生きるな」という本は結局は個人語り自己啓発マシマシのライフハック本に過ぎなかったわけだが…その本を読んだ無駄な時間が今に生きていると考えたら尊いものになるということだ。
— だい (@kuro_kg) May 16, 2023
ちなみに今している経験も無駄かも知れない。そう思えばその無駄から逃げ出し次に行くこともできる。
免色の表現しがたい雰囲気や態度とはつまり、「通例への反抗」または「自身のイデアへの反抗」であった。当時のロシア的に言えば、ロシア人の通例に対する「バカげた行為」である。自分自身の輪郭を知るためには、同じ価値観を共有する空間でむやみに時間を過ごしてはならない。私自身がその価値観の輪郭のまま時間を共有することで、自身に虚偽の輪郭が形成されてしまうからだ。虚偽の輪郭により私の観念が決定され、その観念に動かされる事態に繋がっていってしまう。虚偽の輪郭はどこまで行っても虚偽なのであるから、いくら同じ価値観を共有する空間を漂っていたとしても、「私」を見つけることはできない。免色はそのことについて、無意識に理解していたのだ。私の輪郭、価値観を再構築するためには、今に存在する価値観の空間から脱する必要がある、と。その価値観から脱するときは、非常に強い痛みを伴う。多くの人の価値観を間接的に否定することに繋がるからだ。けれども、否定しその価値観から身を引かなければ、自身に降り注ぐあらゆる意味を真の意味で受け取ることはできない。「気持ち悪い」も「かわいい」も「醜い」も「理解できない」も「なるほど」も…どのような形容や感想も、生感を持ったものとして受け取ることはできないのだ。それらを受け取ることで初めて、私自身の輪郭や価値観が構築されうる。免色は、極彩色から免れようと行動する。主人公は、極彩色に迎合するように行動するのだ。
メタファーの集積としてのイデア
老衰し認知機能が低下した雨田具彦の部屋で、主人公が騎士団長を殺す場面。読んでいて凄惨な場面にも関わらず、その悲劇がとても美しく映る。騎士団長というかりそめの姿をしたイデアが死にゆく場面は、眩いほどの意味の炸裂を思わせる。今まで主人公を結っていたヒモが一斉に解き放たれたような場面。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
そして騎士団長(イデア)は実態の肉体として主人公の前で死んでいく。その死に様は非常に克明だ。イデアは実体的なものであるという示唆がある。またイデアは無数に存在する。主人公のイデアは過去の実際的な記憶の構築物であるならば、そこには他者がいる。つまりイデアは他者だ。他者の肉体なのだ。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
そのイデアを殺すということ。それは私自身が過去の私を想うことに他ならない。嫌なこと、楽しいこと、傷ついたこと、嬉しいこと。その一つ一つの経験に照会し、「なぜ?」と問うことなのだと思う。私自身から除外したもの自体が「何なのか」と問うことだ。無意識に目を逸らしたものを直視することだ。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
イデアは「殺戮」されたのかも知れない。その後に、この場で意識を持つ者がいなくなったことを主人公は確認する。しかし、確認したにも関わらず、殺したはずの騎士団長は主人公に話しかけている。そう、イデアは死なない。目を逸らしていた事実を、私の中に取り込むことに成功したという示唆がある。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
無意識に除外していたイデア(記憶みたいなもの)を取り込んだのだから、それは1個体として認識できない。認識できるのは、それを取り込んだ私自身だ。つまり、新しいイデア(新たな認識を獲得した私)みたいなものにリインカネーションしたのだろう。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
観念を決めうるのはイデア自身である。ある事実に対して、どのような態度を示すかは観念自体がきめることである。そして、その観念自体は自分自身でもある。固定的な観念を身にまとったマネキンとしての自己、ともいえるだろう。マネキンとしての自己は、そのマネキン以上の事実を付与できない。マネキンはマネキンとして、固定的に存在することしかできない。ある事実に対し別のモノの見方を得るためには、別の視野から見たことを学ぶだけでは、決してそれを得ることはできない。別のモノの見方を得るには、「騎士団長を殺さなければならない」。つまり、イデアを殺さなくてはならない。
ある事実を別の角度から照射して観測する時、別の側面は見えないでいるままなのだ。とある部分を見ようとしてそれを観測したとしても、また別の部分は隠されたまま認識することができない。認識できたこと、認識できなかったことはそのまま二項として自己の中に分類されて放置される。そうなってしまえば、ある事実は「認識・観測できたこと」を中心に形成され、自己に落とし込まれることとなる。この、ある事実に対する観測と認識のサイクルは、ある事実を「知る」ことに繋がってはいかない。つまり、別のモノの見方によって期待された「事実の多様性」は、このサイクルによって蔑ろにされる。
騎士団長を殺しても、騎士団長は存在していた。つまり、騎士団長は死なない。イデアは死なない。しかし、騎士団長を殺すことで自己が占める騎士団長の割合(現時点でのイデア・観念の割合)を減少させることは可能である。そのような示唆が本著にはあった。しかしながら、イデアを形成するのはメタファーであり、このメタファーは時間経過に伴って次々と現実に結び付く作用がある。騎士団長を殺してイデアの減少を導けたとしても、悠々として落ち着いている暇はないのだ。そして主人公は、時間に背中を押されるように、メタファー通路へと落ちていく。
吉田拓郎『イメージの詩』とメタファー通路
騎士団長を殺した後、「騎士団長殺し」に登場していたもう1人の男がふっと現れた。その男は通称「顔なが」。顔ながは、自身のことをメタファーと呼ぶ。下級のメタファーである、と。主人公は失踪した少女を助けるためにこのメタファーにその少女の居所を問い詰め、答えさせようとした。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
私は、騎士団長を殺した前後で主人公に変化の兆しみたいなものを直感的に感じた。それを明確に言葉にできないが、免色のような「愚直な好奇心を糧にした追求する力」を感じた。ああだこうだと理由をつけて断念していたイメージが主人公にあったが、それが少なくなったような感じをうけた。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
免色のそのような特徴は、かなり実務的に映る場面もあった。かつて凄腕ビジネスマンだった免色には、そのような行動様式が身に染みており、何かを「達成する」ために、その様式に従う癖?のようなものがうかがえた。免色の無意識の中には、このような特徴があるのだろう。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
そしてイデアの騎士団長は殺された。というよりも、解かれた。これによって、主人公の中の暗喩が解放され自由になりつつある。その出来事が、免色の行動の「イメージ」と、何かに対する「好奇心や達成」という事態と混ざり合い、主人公の行動様式にも影響を与えているのだと思われる。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
『私は海の上にいる漁師と飛行士たちのことを思った。我々はそれぞれに職務を果たさなければならない。そしてこれが私のやらなければならないことなのだ。』
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
何の脈絡もない主人公の決心みたいなものは、以上のようなメタファーが自然と無意識に重なりあい導かれたものだ。イデアの死、によって。
そして長い「メタファー通路」を主人公は進むことになる。ここで見えるもの、匂い、音はすべて比喩、観念的なものである。かつ、比喩、観念的ではないものである。無意味な命題のように思えるが、実際にそのような通路なのだ。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
それは、比喩、観念的であるものは、相対の中で拵えられたものだからだ。
シミュラークル的な通路、それがメタファー通路。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
「かわいい通路」を思い浮かべてみよう。どのような通路になるだろうか?暖色系の色が散りばめられた、可愛らしいキャラクターが至る所に潜むような通路は「かわいい通路」だろうか?それとも他に別の通路はあるだろうか?
もちろんいろんな通路があっても良い。「かわいい」という観念には暗喩が働き、そこにはシミュラークルがある。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
暗喩を幾多に経験すると、「かわいい」という観念が作られる。その観念をもとに、「かわいいもの」を判断する。これがシミュラークルであり、「かわいい」を固定する。
固定された「かわいい」は、自分自身の「かわいい通路」に敷き詰められ、雑多な観念として構築される。あなたの「かわいい通路」はどのようになっているだろうか?あなたの「かわいい」の観念としての通路には何がいるだろうか?
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
メタファー通路で、プロローグに出てきた「顔のない男」がようやく登場した。この男の正体はなんとなく思い浮かぶが、ここには書かずに未定のままにしておくほうが良いかも知れない。なにしろ、その男も何かの観念であり実体なのであるから。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
この通路を、関連性を作りながら進んでいく。つまり、また別のメタファーを蓄積しながら進んでいるのだ。一度解かれたメタファーの蓄積物であるイデアは、再び形作られているということだ。だからこそ、彼の行為は反復できない。今まさに、行動しなければならない。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
面白い比喩。「光は影の比喩。影は光の比喩。」光は影を生むし、影は光の存在を際立たせる。かなり抽象的な、象徴的な比喩の話だけれども、直感的には理解ができる。難しく考える必要はない。光=影、ということだ。光と影には、多くのメタファーが絡まっているのだから。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
二重メタファーの餌食にされないようにドンナアンナに忠告される場面。二重メタファーとは、上述した「かわいい」の観念の論理を理解すればわかるものではないか?メタファーを観念として、視座として別のメタファーを理解しようとしても、元のメタファーの観念に取り込まれるという自体を表す。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
ここで登場する二重メタファーの存在の奥深さに読みながら感嘆した。言葉にするのは困難だが、やはりそうだよな、と思わざるを得ない。この二重メタファーの存在は、多くを語られずに存在していて、だからこそ、読者の心に引っ掛かるものがある。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
離婚後の放浪中よくわからない女に匿って欲しいと懇願され協力する。誰からか逃げているのだ。そのあと、その女とsexをする。そこで彼女の性癖が明かされる。その性癖は主人公の何かを呼び起こした。情事の次の日、二重メタファーの男に合う。男は心の中で「お前が何をしていたかわかるぞ」と語る。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
その語りは実際に男が発したわけではない。もちろん、その男を見かけた主人公が男の存在を通じてなぜだが自分自身に語りかけたのだ。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
…主人公は離婚したにも関わらず、その離婚の理由を問い詰めることもなく、すんなり受け入れ、そのまま離れ離れになった経緯がある。
ある日主人公は夢を見た。激しく女の首を絞め上げ殺そうとする夢だ。その時、主人公は声にならない怒りと、声にならない叫びを、強い感情として露わにしていたことがあった。その夢は、放浪中に緊縛に快感を覚える女をきっかけとして見られたものではないだろうか?
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
女は「私をかくまって」的なことを急に主人公に依頼してきたことも経緯としてある。女には正式に交際している男がいて、なぜかわからないがその男から逃げている。そして放浪中に別の男である主人公との緊縛sexを欲望し実行した。それらの経験は夢に呼応している。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
離婚した理由は、妻に別の男ができたからだ。放浪中の女は、妻を思い起こさせた。その女に緊縛を求められ、そのまま妻を思いながら「殺しそうになった」のだ。激しい怒りや叫びを押し殺していたことに気づかず、その行為を主人公は振り返る。そして二重メタファーの男が上記のように語る。
— だい (@kuro_kg) May 17, 2023
メタファー通路の描写を読んだとき、ふと吉田拓郎の「イメージの詩」にある水夫に関した歌詞を思い出した。以下のような歌詞である。
古い船には 新しい水夫が 乗り込んでいくだろう
古い船を 今 動かせるのは 古い水夫じゃないだろう
なぜなら 古い船も 新しい船のように 新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを
古い船に乗る古い水夫は、新しい海の怖さを知っている。怖さを知っているということは、事前のリスク管理もしやすいということである。しかしながら、そのようなリスク管理を十全に行っていれば、真の意味で新しい海をしることはできない。新しい海は、刻一刻と新しい海ではなくなっていくからだ。その時間経過の中で、古い水夫は古い船を動かすことができないでいるままなのだ。古い船も、刻一刻と変化する新しい海に向けて冒険をしなくてはならないのに、それを古い水夫は阻害しているのだ。新しい水夫は、それを阻害しない。なぜなら、「新しい」という性質が古い水夫よりも多く存在しうるからだろう。目の前にある海に対してピュアに行動できるのは、新しい水夫の「新しい」ものに対する敏感さと、海への鈍感さである。
主人公は「古い水夫」であった。その古さには、数えきることが不可能なほどのメタファーがこびり付いている。そのメタファーが、新しい海への冒険を阻害する。それが良いのか悪いのかはわからない。しかし、現状から変容したいという欲望が自分自身の中にあるとするならば、その阻害要因であるメタファーは少ないにこしたことはない。メタファーが少なければ少ないほど、単純なメタファーをそのままの意味として受け入れることができる。単純なメタファーを受け入れることができれば、また別のモノの見方を得た自分自身を得ることができるかもしれない。そのために、騎士団長は殺すほかなかった。そして、イデアは解かれた。解かれると同時に、下級のメタファーである「顔なが」が登場した。単純な、下級のメタファーは、騎士団長というイデアを殺すことで初めて観測することができたのだ。(正確に言えば、いつの日か観測したときと同じように再度観測することができた。)そのとき、主人公は「新しい水夫」に近似する存在となったのだと考えている。
しかし、重要な示唆としてあるのは、結局人にはイデアが存在してしまうという事実であると思う。メタファー通路を通り時間を過ごすことで、別のモノの見方を得ることが可能になる(主人公が離婚した妻と真正面から向き合う行為など…)が、それも別のイデアによってもたらされた行為なのである。行動は認識のうちにあるのだ。けれども、行動も認識もそのような制約から逃れることができないという事態を、ニヒリスティックに描いていないのがこの作品の特徴であると思う。確かにイデア(観念)に自分自身が踊らされているけれど別にそれでいいんじゃないか?、というような軽いノリとして。メタファーを観測するためには、何かの柱を据えていなければならない。観測できるメタファーによって、人は如何様にも変容できる。観測のために必要なのは、寄りかかることができる「柱」だ。その柱は人間に無くてはならないのだ。たとえ変わることが難しくても、それを望みさえすれば変わることはできるのだろうと思う。
「存在」と「思考」の関係
4冊目は主にイデアの刺殺とメタファー通路の描写が描かれている。イデアの刺殺とはいささか矛盾した事態ではあるが、本著で描かれるイデアは「善のイデア」に示されるものではなく、「個々の規範・観念・認識・価値観・行為…」である。個人が有する「ものさし」である。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
音楽を見聞きした人々の感想が一様にならないのは、本著的に言うならば各々のイデアがあるからだ。また、『騎士団長殺し』に何か言われもしれない思念を感じる人もいれば、その絵に何も感じずスルーする人(秋川笙子)もいる。そこに上下関係はなく、ただ個々のイデアによるものなのである。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
音楽や絵画の形像は常に一定ではないのは、それは個々にイデアがあるからだ。音楽や絵画は実は常に一定だ。イデアがあるからこそ、その音楽や絵画は変容する。イデア自体も個々の認識や行為により変容する。その変容に合わせ、周囲の世界が変容する。もちろん世界自体は不変だ。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
ということは、何かを変容させるのはイデアであり、そのイデアを変容させる自分自身なのである。つまり、何かを変えるのは自分自身でしかない。そのイデアの個々の要素は自分自身であり、数々のメタファーである。暗喩は例えるものをさまざまな例えられるもので強く表現するものだ。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
メタファーで扱う要素は「例えるもの」「例えられるもの」である。暗喩で使う要素もさまざまな変容にさらされている。つまり、これらの要素は(個々において)変容するのであり、要素が変容すればその要素で構成されるメタファーももちろん変容する。つまり、現実は地獄や天国に変容することを言う。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
時に地獄は天国に比喩され、天国は地獄に比喩される。そうなれば、「世界は地獄だ」「世界は天国だ」の暗喩も反転しうる。また、世界が(個々において)変容すれば「例えられるもの」も変わる。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
イデアが変容を促す稼働装置なら、その装置により変容するのはメタファーである。
しかしイデアの変容のベクトルは「後退」を含みにくい。なぜなら、今のイデアがメタファーを観測しメタファーを変容させれば、稼働装置のイデアも変容する。その変容したイデアによって再びメタファーを観測すればさらなる「変容したものの変容」が進む。よって、変容したものを後退させるのは困難だ。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
イデアを刺殺することは「メタファーのできる限りの解放」を促す。その後に、「メタファー通路」に移行が可能になる。その通路には、多くの試練が課される。変容に変容を重ねメタファーとなった事実を再び取り戻し自分の事実にするには苦痛が伴う。主人公や秋川まりえは、そのような試練に身を晒す。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
「ブラームスのシンフォニーの1番は美しい」という当人のイデア的なものを解体するには、それを「美しい」と思う観念を解きほぐさねばならない。その「美しい」と思う観念を解かなければ、当人の「美しい」が固着してしまう。(しかしながら、それの良し悪しは解し難い。)
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
「美しい」に多くのメタファーが固着した結果、それはイデアの養分になった。そのイデアで再び「美しさ」が観測されるのだ。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
のちに、限定された観念になっていく。そして、個々のイデアは規則正しい本質、全体性のある偶像になっていく。
「何かから抜け出せないような自分がいるなら、そのイデアを殺し、メタファーを解き放ち、そのメタファーを細かく観察し受け止めなければならない」という村上春樹の考えを、『騎士団長殺し』のメタファー通路から読み取ることが可能ではないか?
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
おぱんちゅうさぎを「かわいい」と思うことは、もしかしたらおぱんちゅうさぎ自体を「かわいい」と思うこととは別のことかもしれないのだ。つまりは、「自分はおぱんちゅうさぎを見ていない」のではないのか。
— だい (@kuro_kg) May 19, 2023
要するに、『現実を見ずに何かを経験したり形容したり感じたりしていないだろうか?』
相関主義の根本・本質は、「存在」と「思考」の相関関係にある。「存在」は何かを「思考」する。つまり、「思考」するためには、何かしらの「存在」が必要になるということだ。そしてその「存在」は、さまざまな様式をもち、さまざまな変容可能性が有るような、揺らぎつづける者である。何かを「思考」し、「存在」が行動するときには、「存在」は「思考」に依存しなければならない。この強いつながりとしての「存在」「思考」によって、人の認識や行動は限定された場所に収縮していく。それは悪いことではない。しかし、良いことでもないだろう。
主人公は実用的肖像画家であった。それは序盤に描かれている事実であり、また終盤でも描かれている事実だ。しかし、その在り様は同様ではないのだろう。かつて主人公の「存在」と「思考」は、肖像画のよって措定されていた。肖像画を描くためのテクニック(他者を具体的に読み解きそれを肖像画に落とし込む技術)が、主人公という「存在」を徹底的に規定し、その規定された「存在」によって「思考」を続けることで、行動と認識を繰り返していた。主人公が陥っていた環については、きっとユズ(主人公の妻)も気づいていたのかもしれない。日常の些細な変化から観測される感覚として。私を愛してくれていることは分かる。けれども、本当に「私」をあなたは見てくれているのかしら?あなたはあなたとしてのピュアな「存在」で「思考」した結果、私を愛してくれているのかしら?あなたは、本当にあなたなの?あなたは、もしかしたら別の遠い所に行ってしまっているのではないの?私はユズがこのように感じ、無意識な不安を抱いていたのではないかと想像した。
主人公は、自分自身という「存在」を「思考」から切り離さなくてはならなかった。そういう意味において、東北・北海道への放浪は意味のあるものだったのだろう。肖像画家としての「存在」を切り捨てることで、肖像画を依頼する他者に「思考」を委ねるのではなく、自分自身に対して「思考」する時間として機能していたのだ。最終的にメタファー通路に入ることで、イデアやメタファーの再分配と再構築が行われたように映るが、そもそもこの放浪の時間と雨田の父親の家に住むことになった瞬間から、ある種のメタファー通路に足を踏み入れていたのかもしれない。だからこそ、自分自身を再定義できるような不思議な経験を積むことができたのではないだろうか。
「この世界にはたしかなことなんて何ひとつないかもしれない」
「でも少なくとも何かを信じることはできる」
終盤のこの言葉にこの物語が集約されているように思う。たしかな「存在」もいないし、たしかな「思考」もないのだ。主人公は、その事実を身をもって実感した。そして、その実感を確かな事実として、「少なくとも何かを信じることはできる」として「思考」するにいたった。このように「思考」する、主人公という「存在」は、とりあえず何かを信じることのできる柱を探すに至り、離婚調停中だった妻とよりを戻すこととなる。関係を再構築できたのは、主人公という「存在」が「思考」を再措定できたからほかならない。騎士団長というイデアとしての「存在」を殺すことで、メタファーを直に観測し、それを再措定できたからほかならないのだろう。
あらゆる意味が自分の前を通り過ぎていき、その意味に思考させられる今の時代。その一連の流れによって、自分自身を措定するメタファーを発見し、後の観念としてのイデアに成形されていく。それ自体は悪いことではないだろうと何度も言った。しかしながら、「私自身」が「私」について分からないという事態を放っておくわけにもいかないだろう。意味の多様さを観測することとは、自己の多様化を進めることにつながることはない。多様な自己は、強硬で貧相な自己を措定するしかない。
人は、この「騎士団長殺し」から学ぶべきことが多いと感じる。
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