「無責任⇄有責任」?
昨日の夕刻、嵐の活動休止が発表された。
2020年末でグループの活動に区切りをつけるとのこと。
この発表が公式になされた記者会見の場で、とある記者より発せられた「無責任」という言葉が、現在進行形で炎上している。
「無責任」の対義語はなんだろうか。
朝、ふと考えてしまった。
“無”の対義語は“有”だから、「有責任」という言葉がピッタリかもしれない。
ところが、Google先生で検索にかけても、「有責任」についてしっくりくる結果を返してくれない。
「有責配偶者」という難しそうな言葉が、ディスプレイに羅列されている。
ということは、「有責任」という言葉は、実は存在しないのかもしれない。
いや、もしかして、存在していないのではなく、存在が明示的ではないだけなのかもしれない。
自然とこの世界に、隠れた共通認識として存在しているとも考えられる。
だとすれば、人の一挙手一投足、一言一言には責任が存在すると言えるかもしれない。
だから人は発言や行動に気をつけなければならないし、社会的地位が上がるにつれてより注意深くならなければいけない。
もしくは、責任というのは個人が持っている一つの基準にしか過ぎないのかもしれない。
完璧とか100%とか、そういう言葉と同じで、責任があるかどうかの基準が個々人に依存しているとも考えられる。
先の嵐の構図で言えば、嵐自身は自分たちの活動に対して責任を意識していなかったが、当該記者はなんらかの責任(という基準)を求めていたということになる。
「責任問題」とか「責任者」とか、よくよく考えれば自分で意識することはあまりなくて、
誰かに指摘・任命されて、もしくは他人の行動が変容したことによって初めて実態を帯びてくるような気がする。
最近、「自分の感情には自分で責任を持たなければ」と思うことが多いけれど、
「じゃあどうやって責任を取るか」ってことは、結局他人が満足するかどうかなのかなと思ってしまった。
(そもそもエンターテイナーの責任ってなんだろうか?オーディエンスが楽しむかどうかはオーディエンス次第なのだから、「楽しませられない責任」というのは、やっぱりよくわからない。「誠心誠意、ダンスや歌を頑張ってくれ」ということなのだろうか?だったらそう言えばいいのに…)
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