エガオが笑う時 第7話 ミセス・グリフィン(2)
水が滴る。
私は、しっとりと濡れた髪を乱雑に編み込んで自室に戻った。
ちょっと前までは少しでも雫が垂れようものなら「風邪引くでしょう!」と怒られて髪の毛を思い切り、しかし優しく拭かれた。
しかし、この宿舎で私にそんな世話を焼く者はいない。
濡れてようが、汚れてようが気にしない。
ただ、恐怖と嫉妬の混じった目で私を見るだけだ。
誰も気にしない。
唯一、気にかけてくれた少女もどこにいるか分からない。
私は、固いベッドの枕元に膝を組んで座る。そして何の面白みもない天井を見上げる。
部下達との稽古を終えてからお風呂に入り、自室のベッドに座って天井を見つめる。
それが今の私の日課だった。
それ以外は、何もしない。
作戦会議に参加する訳でも自主練をする訳でもない。
決められた一連のルーティンをこなしながらお披露目会の日が来るのを私は待っていた。
マナとヌエと対峙し、この手で屠る日をじっと待っていた。
それ以外はすることも、する気もなかった。
グリフィン卿が声を掛けてくれなかったら食事も摂らなかったかもしれない。いや、と、言うよりも食べたくなかった。
あの味以外を食べたくなかった。
身体の中に入れたくなかった。
それでも食べない訳にはいかないから砂を噛むように摂取する。
私は、胸元を触る。
鎧の下に隠した大切な物。
直接触る勇気が持てなくてここに来てから鎧越しに、鎧下垂れ越し触る。
これを触っている時だけ心が少し軽くなる。
あの夢のような日々を思い出して心が温かくなる。
「みんな・・・元気にしてるかな?」
私の脳裏に楽しそうに談笑する4人組の姿が浮かぶ。
優しく微笑むマダムの姿が浮かぶ。
赤い目で呆れたように、しかし世話をしてくれるスーちゃんの姿が浮かぶ。
そして・・・。
私は、ぎゅっと胸元を触る手を握る。
洗ったばかりの手にでったりと血が付いているような錯覚を覚える。
あの日々が霞んでいく。
そんなもの元々なかったと言うようにボヤけていく。
4人組が、マダムが、スーちゃんが遠くに消えていく。
鳥の巣のような髪をした彼が胸から血を滴らせながら優しく私の頭を撫でる。
温かい・・。
「エガオ」
彼が優しく私の名を呼ぶ。
「カゲロウ・・」
私がそう呼ぶと彼は口元を釣り上げて優しく笑う。
そして消える。
頭に感じた温もりも消える。
何もなかったように。
彼なんて最初から存在しなかったように。
私の頬を冷たいものが伝う。
何をしてるの?
声が聞こえる。
冷たい、何の抑揚もない女の声が。
何も描かれていない仮面のように無表情に水色の目で私をを見下ろす私がそこに立っていた。
"貴方のような穢れた存在が何を夢見てるの?"
私は、私を馬鹿にするように言う。
私の身体は、全身が血で真っ赤に濡れていた。
しかし、私は気にした様子も見せずに私を見下す。
"貴方は、笑顔のないエガオ"
私は、冷徹に告げる。
"夢なんて見るんじゃい。綺麗な場所なんて求めるんじゃない。幸せなんて求めるんじゃない"
私は、私の頬に触れる。
"貴方に笑顔なんて似合わないのだから"
私は、消える。
残されたのは涙を流して震えるだけの弱い私。
私は、膝の上に顔を沈め、静かに嗚咽した。
「隊長様」
閉められた扉の向こうから声が聞こえる。
従者の誰かの声だ。
私は、顔を上げて涙を拭く。
「なに?」
私は、扉に向かって声をかける。
自分でも驚くほど冷たい。
扉の向こうで従者が怯えているのを感じる。
本当に私は笑顔のないエガオに戻ってしまったようだ。
「あの・・・」
侍女は、声を震わせながらも言葉を出す。
「グリフィン卿の奥様がお呼びです」
従者の言葉に私は眉根を顰める。
「グリフィン卿の・・・奥様?」
私は、訳が分からず口に出す。
いや、グリフィン卿に奥様がいることは別に驚かない。
大貴族であるグリフィン卿が結婚してない方が逆に驚くことだ。
でも、何で面識もないその奥様が私を呼ぶの?
私は、訝しみも従者に「今は忙しいと言って断って」とお願いする。
別にグリフィン卿の奥様だからではない。決められたこと以外で誰かに会うつもりなんでなかった。
お願いだからそっとしておいて欲しい。
もう誰も私に構わないで欲しい。
しかし、従者から帰ってきたのはそんな私の些細な願望をまるで聞き止めないものだった。
「そう言うだろうから来るまで帰らないと言ってと奥様かが仰られてました」
ますます訳が分からない。
そう言うだろうからって何で会ったこともない奥様がそんなこと言うの?
私は、苛立った。
絶対に行ってやるものかと思った。
しかし、扉の向こうで従者が困っているのを感じて仕方なくベッドから降りて部屋を出る。
従者は、安堵と恐怖の混ざった顔で私を見ると、案内する為に前を歩く。
怠い。
行きたくない。
誰にも会いたくない。
ちゃんとやるから私のことは放っておいて。
そんな思いが私の胸を飛びかう。
従者が案内したのは執務室・・グリフィン卿の私室だ。
別に驚くことではないか。
グリフィン卿の奥様なのだから汚い食堂で私を待つことなんてない。
私は、従者に1人で行けるからと告げると嬉しそうに彼女は去っていった。
私は、小さく嘆息して扉に向かい、ノックする。
「エガオです。入ります」
そう言って扉を開けた瞬間、優しい温もりが私の身体を包み込んだ。
柔らかい。
甘くていい匂い。
長く細い指先が私の髪に触れる。
「嫌だ、ゴワゴワじゃない」
聞き覚えのある声が私の耳を打つ。
「ちゃんとシャンプーしてた?」
明るくてお淑やかな声。
私は、涙腺が潤みそうになる。
なんで?なんでこの声が聞こえるの?
「どうしたの?」
髪の毛から手の感触が消える。
温もりが少しだけ離れて潤みそうになった私の視界に金と白の混じり合った髪と清楚で気品のある顔が入り込む。
「マ・・ダム?」
私は、震える声で彼女の名を呟く。
「こんにちはエガオちゃん」
マダムは、出会った頃と同じようににっこり微笑む。
「なんで・・なんで・・?」
なんでマダムがここにいるの?
幻⁉︎
幻なら早く消えて。
これ以上・・これ以上私を虐めないで・・苦しめないで。
お願い・・・お願い・・。
しかし、マダムは、そんな私の心を優しく撫でるように微笑む。
「エガオちゃんに会いたくて来ちゃった」
小さい子どもが悪戯がバレた時のように小さく舌を出す。
「あと、言ってなかったわね。私の名前・・」
名前?
「私はね。マリア・グリフィン」
グリフィン⁉︎
「みんなからはミセス・グリフィンと呼ばれているわ」
マダムは、微笑んだ。