水と怪物 第一部
第一部
恋をはじめました。狂う程、本当の意味で狂ってしまう程の熱い恋を。そして何がすごいって、私の恋人は神様なのです。
「ほら、もっと崇めろよ鳩ども」
そう、鳩の。でも彼は、何も無かった私からすれば神様同然だと思う。つまり鳩と私の神様。
彼の本当の名前はまだ知らない。聞いてもいない。聞かれてもいない。けれど、私達が繋がりだしたきっかけの名前さえあればそんなの些末な問題に過ぎない。彼は常にポケットにパン屑を入れている。出会う鳩みんなに餌付けするためらしい。そのために毎朝パンを食べているというのだから、筋金入りだ。
袋の中が空になったらしい。地面に嘴を刺すのかというくらい細かくパン屑を拾う鳩を楽しそうに見下ろす彼を、私は少し離れたベンチに座りながら眺めていた。
遠目から見ても、彼は綺麗だ。あんなに整った顔立ちの男、私の今までの人生で一人も出会った事が無い。とくにななめ四十度から見た顔、最高。今日は濃いサングラスと帽子を掛けているけれど、そんなのじゃ誤魔化しが効かない程にまで彼はオーラのようなものを放っている。
「ふふ、素敵」
声に出てしまう。それだけ彼は格好いいし、非の打ち所が無い。
彼は袋をたたみながら、こちらへ歩み寄ってきた。鳩に餌付けしている最中に近付く事は、禁止されている。一度やってしまって鳩が全部逃げた時、彼は見た事無い程の形相で怒った。けれどそんな顔も素敵でうっとりしていたら、「ヘラヘラすんなや」と横っ面を張り飛ばされた。前の旦那の時は暴力を理由に別れたけれど、この人に振るわれるのはすごく好きだ。恋って、本当に恐ろしい。相手によってされて嫌な事も嬉しい事も全てすり変わってしまう。そもそも恋愛自体が久し振りなのもあるし、とにかく加減が効かない。だって私は、ずっと縛られてきたから。
「お待たせ」
「全然大丈夫」
京都府の中でも一番にぎわっていると聞いた、京都河原町に今私達はいる。この場所は六角公園というらしいけれど、どのあたりが公園なのか分からない。もはや一つの大通りのようでしかないのに。やっぱり、地名や道のの感覚が他の県とは違うのだろうか。ここに来たのは、彼いわくここの鳩たちは子どもの頃から知っているから会っておきたかったとの事だった。鳩の寿命について一瞬頭をよぎったけれど、気にしない事にした。だって彼が一番正しいのだから、私の疑問なんて些末なものなのだ。
「早いところ買いに行くか」
「うんっ」
ぶっきらぼうに手を出される。それを握り返すと、引っ張るようにして歩き出した。こういうところに、私を愛してくれてるんだって感じられる。私に触れたいって思ってくれている事への安心感で、胸がいっぱいになる。
すぐそばにあるビルに入る。衣服店と雑貨屋とエステサロンが一つにまとまったビルで、今日私達が用のあるのは雑貨屋の方だ。エレベーターに乗り、上へと進む。
「ずっと笑ってるやん」
彼の指摘に、「だって嬉しいんだもん」と返す。
雑貨屋の中にある、小さなジュエリーコーナー。店員がすぐさま彼に気付き、近付いてくる。
「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか」
「はい、ペアの指輪が欲しくて」
彼の前だ、全力で愛想をふりまく。店員に高圧的な奴は嫌われる、って何かで見てから気をつけるようにしている。本当はこんな小娘なんかに下手に出ないといけないのが、もどかしくて仕方ないけれど。だからせめて、私を可愛く見せる踏み台でいてくれればいい。彼をちらりと見ると、すでに陳列棚を眺めていた。その事にほんの少し、残念な気持ちすら生まれた。彼には、素敵な状態の私をずっと見ていて欲しいのに。
本当は、店員と言えど女に関わってほしくない。だってこんなかっこいい人、見ればそれだけで心を奪われるに決まっている。実際私は、すぐに捕らわれた。恋って本当に、恐ろしい。焦燥感とずっと隣り合わせだ。
「そうなんですね。今日中にお持ち帰りをご希望でしょうか」
「ええ、はい。今日じゃないと駄目なんです」
そうだ。今日しか、時間が無い。私達は二度と、ここには来ない。その覚悟は固まっている。
「でしたら、まずサイズをご確認いたしますね」
店員が、何十本も輪のかかったリングゲージを取り出す。促されるままに指を通していきながら、彼に指が太いとか馬鹿にされたらどうしようなどと考えていた。けれど店員の「七号ですね、とても細くいらっしゃいます」という声でほっと安心する。こんな汚い事ばかりしてきた手でも、変に鍛えられる事が無かったのは不幸中の幸いだった。
彼のサイズも測る。店員の手が彼の指に触れた時泣いてしまいそうになる程心臓が熱くなったけれど、どうにか堪えた。一瞬で測り終えられ、十五号だと告げられる。また一つ、彼の事を知る事が出来た。
「変わってへんな」
……そうだ、彼は指輪をつけていたことがある。今は外しているだけで。目の前の棚をぐしゃぐしゃにしてやりたいくらいの衝動に駆られたけれど、彼の彼女である素敵な私はきちんと我慢した。
大丈夫、あの女の事は忘れられる。だって彼は、捨てる覚悟を決めてくれた。
店員の説明を受けて、今日中に用意出来る指輪のコーナーへと向かう。そこには、たくさんの指輪が身を輝かせて鎮座していた。色とりどりの石で飾られたものとあれば、一癖ある形のものまでいる。
「え、迷う」
「早よ決めえや」
最初こそきつく感じていた関西弁も、今となったら彼が話すだけで脳が揺さぶられる程ときめいてしまう。だってその中には、私への愛がたくさん詰まっているって知っているから。だから私は、とことん甘くなれる。こんなに人に甘えられているのは、人生で初めてかもしれない。今までずっと、そんな事なんて出来なかったから。
「形、どんなのが好き?」
「何でもいい」
ほら、その丸投げも私を思ってのことなんだってよく分かる。私の好きなものにさせてくれようとしてくれている。この人は本当に、優しい。
店員が形の種類を説明してくるけれど、彼は見向きもしなかった。どうやら本当に、全て私に任せる気らしい。
改めて、棚を見る。そしてぱっと、目についたものを手に取った。
「これでお願いします」
真っ直ぐなストレートタイプで、装飾が一切入っていないものだった。女性用も男性用もまったく同じデザインで、だからこそ……二人の指輪、と思える。あとは単純に、前の夫との結婚指輪の形と全然違っていた。あれと同じにするのだけは、死んでもごめんだ。
「かしこまりました、ありがとうございます」
その後は細かい説明を受けた。すべて私が聞いていたけれど、彼にこの店員を近付けるのは億劫だったから丁度いい。それに、これを口実に彼と沢山話せると考えると心が浮足立った。
「で、こちら指輪の内側に文字入れが出来るんです。お時間十五分ほどで出来上がりますよ」
「十五分」
それくらいなら、余裕がある。記入用紙とペンを店員から預かり、少し離れた場所にいる彼の元へ向かった。彼は「もう決まったんか」と呟いた。
「ねえ、中に文字入れられるんだって」
「お前が考えろよ」
「駄目。私は指輪を選ばせてもらったし、文字は貴方が決めて」
「面倒くさいわあ、ほんま」
などと言いつつ、記入用紙とペンを受け取ってくれる。そしてすぐにさらさらと記入し、直接店員へと持っていっていた。それに何だかむず痒さを感じたけれど、唇を噛んで耐える。そうだ、彼が私の恋人である事には変わりないんだ。あんな、若いだけの不細工なんか彼は絶対相手にしない。大丈夫、大丈夫。私の方が魅力は余りある。
店員は色々確認すると、伝票を作り上げた。どうやらレジは別の位置にあるらしく、彼に伝票を手渡した。面倒だとは思ったけれど、すぐさま準備に取り掛かった店員を見ると仕方ない気もした。
「ん」
彼から伝票を手渡される。それを受け取り、レジで支払いをした。合計で三万円程の買い物だけれど、普段の事を考えれば格安のようにすら感じられる。実際、私が彼にあげたあのサングラスはこの指輪二本分よりずっと高い。けれど、身に着けてくれていてくれるだけでこの上なく嬉しい。彼の生活の一部になれるのが、嬉しい。
会計を終え、先程の店員の元へ持っていく。確認を終えると、引き換えに番号札を渡された。番号札を財布に入れると、彼が「どうする、今から」と口にしてくる。
「十五分かかるってだけで、閉店までに戻ればいいんやろ。その間何して時間つぶすよ」
彼が今日河原町にくる事を許してくれたのは、あまり派手に外をうろつかない、という条件の元だった。今考えれば、彼と会って早々行為に耽ったのは時間配分ミスだったかもしれない。彼の時間は今はまだ有限だから、大切にしないといけないのに。
ふと、思いついた。
「あそこ行きたい、鴨川」
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