見出し画像

自分を形成した3人の作家『東京大学のアルバート・アイラー』『阿修羅ガール』『アッシュベイビー』

11歳でドストエフスキー
15歳でエヴァンゲリオン
最悪のコースに溺れていたの

ハンパに高いIQがいつでもいつでも邪魔になって
革命ばかりを夢見るけれども 何も出来ない

悶々として暮らすうちにいつの間にか憶えたことは
自分の手首をちょっと切ること

普通の恋/菊地成孔 feat.岩澤瞳

好きなものを語るのはいつだって楽しいもの、ですよね?

今回は、自分が心から好きな……うーん違うな……愛する……それでも足りない……崇拝する作家3人について語ってみます。

思春期の頃に出会った作家たちって、自分の文体、文章の書き方、いや、小説作法だけに留まらず、生き方さえも方向づけてしまうものではないでしょうか。

とくに、日夜長文を書き続けている文章が好きなnoterの皆さまにおかれましては、そういう作家の一人や二人はいるはずです。

自分ももちろんその一人。

これから紹介する作家たちに出会っていなければ、こんな小説を書いていませんし、物語をこれほど愛するようになることもありませんでした。

あと、こんな生き方もしてなかったはずです笑

だからこそ、やっぱり、こうして書いてみると恥ずかしいものですね😳

だって、自分の手の内を明かしてしまっているようなものですから。

これから挙げる3人の作家たちの影響はものすごく受けていますし、似ないように努力はしているつもりですが、血肉になっている文章ゆえにどうしたって似てきてしまうものですから。(似てるというのもおこがましいですが…)

自分が神と崇める作家たちとの出会いについて語っていくことにしましょう。

金原ひとみ

私の血肉になれ。何もかも私になればいい。アマだって、私に溶ければ良かったのに。私の中に入って私の事を愛せば良かったのに。

蛇にピアス/金原ひとみ

ほとんどまっさらな時分に彼女の本に触れてしまったのは事故としか言いようがありません。

第130回芥川賞を受賞した金原ひとみ。綿矢りさとともに《最年少W受賞》と持て囃されて、連日大ニュースになりました。そのおかげで大売れの大ベストセラーに。自分はその頃から本は好きでしたが、いっても人並程度。そんな自分でも「純文学を手に取ってみよう」と思わせたのだから、やっぱりメディアの力ってすごいです。

『アッシュベイビー』『蛇にピアス』

『蛇にピアス』と受賞後第一作の『アッシュベイビー』を手に取ったときの衝撃は、なかなか言葉にできるものではありません。

確かに、スプリットタンやタトゥー、拒食症といった道具立てが奇抜だったり、ハンス・ベルメールの球体関節人形が表紙になってたりして、そういった“いかにも”な要素が、思春期だった自分の興味を強く惹きつけたというのもあるでしょう。

元々、監禁される事も、つまらない生活も、全て私が自ら望んだことだった。私は束縛される事を望んでいたし、携帯を折られることも望んでいたし、浮気をしながら、浮気をしてもガトウは私を捨てないと分かっていたし、もちろんその上で浮気相手とガトウを天秤にかけていた。だから私はメモリーのバックアップを取っていたし、逃げようと思えば逃げられたのに大人しく監禁されていた。復讐と、支配のために。

オートフィクション/金原ひとみ

そういった表層的な飾り立て以上に、確たる意志をもって読者を傷つけようとしてくるような鋭利な言葉選びと、登場人物の精神が文字に正確に転写され、それがそのまま読者である自分に流れ込んでくるような、彼女にしか描けない文体に衝撃を受けました。

●小説ってこんなこと書いていいんだ…世界の見方ってこれで間違ってなかったんだ。

負のエネルギーが充溢した作品世界の中で自分がズタズタに切り刻まれる感じがして、実際に読んだ後は具合が悪くなったのを覚えています。(意外と読書中に具合悪くなりがち)

もってまわった難しい言い回しをしているわけでもなく、きわめて平易な言葉遣いだし、なんなら汚い言葉もたくさん使っているのだけれど、それだからこそ、精神の揺らぎや動きがダイレクトに自分に響いてきます。

それに、あと、「小説ってこんなことって書いていいんだ、ていうか、こんなこと思っていいんだ」って衝撃を受け、文学のイメージ(と、世界の見方)がガラッと変わりました。

それまでの文学のイメージって、“真面目”とか、“お行儀の良い”イメージだったのだけれど、全然そんなことないんだなって思いました。文学っていう表現手法そのものの懐の深さを知りましたし、世界ってちょっと見方を変えるだけでこんなにも醜く、酷く、そして、愛に溢れているのだということを知ったのです。

この日本のどこかには、こんなにも解像度が高く、世界を見ている人がいるのだ、ということは勇気づけられましたし、それこそ文字通り満身創痍になって傷つき、精神が分裂しながらもそれでも前を向いて生きていく彼女の作品に出てくる登場人物たちに、共感って言ったらちょっと違うしおこがましいのだけれど、「分かる~」となったし、羨ましくもなりました。

(綿矢りさももちろん読んだのですが、全体を通して、彼女の作品に出てくる登場人物たちの思考回路が優等生的すぎて、自分には少し息苦しさを覚えたのです)

ちなみに、最新作の『ミーツ・ザ・ワールド』もこのまえ読んだのですが、とても面白かったです。初期作品群がやっぱり金字塔ですが、最新作も十分に面白いです。非モテ腐女子OLと歌舞伎町住みのキャバ嬢が歌舞伎町の路上で出会って奇妙な同居生活を送るシスターフッドなお話で、読者を優しく励ますようなそんな作品です。

舞城王太郎

実はこの作家との出会いは、本屋でのジャケ買いでした。だから、まったくの偶然です。引きが強いのか、はたまた運が悪かったのか……

何か面白い本を読みたいと本屋に立ち寄った際に、この表紙がたまたま目に入りました。

阿修羅ガール/舞城王太郎

踏切。

黒髪。

セーラー服の女子高生。

恋する女の子と、同級生が誘拐される事件。

「あ、これ、面白そう。てかなんだか胸キュンできそう…」と思って、ろくに中身も確認せずに、この本を購入したのです。

(ふ~ん、同級生が誘拐か~。赤川次郎とか綾辻行人とか森博嗣とか面白かったし、高校生が主人公で探偵するミステリーなのかな?)ぐらいに軽く考えてました。

甘すぎ。甘すぎです。

さっそく家に帰って読み始めました。この本の冒頭はこのように始まります。

 減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。
 返せ。
 とか言ってももちろん佐野は返してくれないし、自尊心はそもそも返してもらうもんじゃなくて取り戻すもんだし、

阿修羅ガール/舞城王太郎

好きでもない男と興味本位でやってみたら、想像以上にセックスが下手すぎて寝たことを後悔する女の子が登場してきたのです。

彼女の独白はさらに続き、口汚くセックスの相手を罵ります。

きもちよくねえよ。いくねえよ。声なんて出ねえよ。出てもおめえに聞かせるこえなんてねえんだよ。入れて欲しくねえんだよ。おめえのチビチンポなんて入れて欲しくもなんともねえんだよ。入れたげるじゃねえよ。上に立とうとすんじゃねえよ。責めてるつもりになってるんじゃねえよ。あそこが濡れるのはおめえのおかげじゃねえんだよ。そんだけグリグリ動かしゃ耳の穴でも鼻の穴でもグチョグチョ音がたつんだよ。
 佐野明彦のバカチビチンポ。

阿修羅ガール/舞城王太郎

自分に合わないからって、本を読み捨てできるほどのお小遣いなんてなかったので、頑張って合わないなりに読み通しました。やっぱりこの作品も読み終わったとき、吐き気がするほど気持ち悪くなりました。(文章読んで気持ち悪くなること、多いですね🙄)

金原ひとみも汚い言葉は確かに多いし、グロテスクではありますが、それはまだ耐えられます。(それでもちょっと気持ち悪くなりましたが……)

でも舞城王太郎は違います。自分の閾値を軽々しく超えてきました。

作品内で描写される暴力は受け付けない陰湿なタイプでしたし、なにより主人公は口汚いってレベルを軽々しく凌駕していますし、物語はあらぬ方向へと飛んでいきます。文字通り、陰惨な悪夢を見ているような描写が続きます。

とある章では“ウンコ”という言葉が多用され、何百回と“ウンコ”という単語がページ上にびっしり羅列されていたり……フォントサイズが突如としてでかくなったり、当時、東京都知事だった石原慎太郎まで登場して訳が分かりません。

「え、高校生たちが同級生の誘拐事件に立ち向かって、爽やかに事件を解決して恋心も芽生えちゃう青春推理小説を期待していたんだけど……」と当時の自分は、絶望に打ちひしがれました。(単行本で買ったので金銭的にも大打撃でした)

そして、大っ嫌いな作家になりました。もう二度と読むまい、と誓ったほどです。

すこし時間が開いた頃、舞城王太郎が文学界隈で話題になり、文学誌でも特集され、評論家もこぞって彼の作品を取り上げて絶賛、もしくは批判していました。

あーあの嫌いな作家か…とスルーしていたのですがあまりにもたくさんの人たちが減給するので、気になってきたのです。

それで、他の小説も併せて読み直してみたら、見事にハマりました。

彼の作品を評する言葉は“圧倒的文圧”でした。一人称で、息継ぎの無い文章で、一気に叩きつけるような文章。彼の作品の力に圧倒され、フィクションの持つ可能性をまざまざと見せつけられました。

ミステリーというジャンルそのものの限界を押し広げたメタミステリー『九十九十九』。殺人事件の解決という推理小説の肝の部分をギミックとして使い捨てていく『煙か土か食い物』。そして、それらの集大成的な作品となる二段組1000P超えの『ディスコ探偵水曜日』。

●陰惨な暴力を通り抜けてやがて真実の愛へと到達する物語

舞城王太郎もまた、陰湿な暴力や、汚い言葉を多用する作家だけれど、それらを突き抜けた後、登場人物たちは真摯な愛へと到達します。

最初は吐き気を覚えるほどの気持ち悪さを覚えた『阿修羅ガール』ですが、こんな一文があります。

『陽治がエチオピアやら月の裏やら別の時空に走って行くなら私はすっごく丸ごと全力で応援するし、永遠にいかなる場合でも陽治を肯定し、愛し続けるのに。いやいや私は今のままの陽治で十分愛して肯定して応援するから。』

阿修羅ガール/舞城王太郎

もうほんと大好きな一文。

あーこれだこれだ。これじゃん。って思いました。これ以上に『愛』について正確に記述された文章を他に見たことがありません。うん、自分の理想とする『愛』ってこれだ。これが理想なんだって。こうやって人を愛したいんだ、って。

芥川賞候補作になった『好き好き大好き超愛してる』の冒頭は有名です。

愛は祈りだ。僕は祈る。

好き好き大好き超愛してる/舞城王太郎

こんな言葉が冒頭に出てきます。“愛は祈りだ。僕は祈る。”ほんとに良い言葉ですよね。

(祈りっていうことは、つまりすごい切実なことです。満員電車でお腹痛くなった時、必死になって神に祈るでしょ?それくらい祈りってのは切実な行為なんですほんとは。だから愛ってのはそれくらい切実なこと)

あんまりにもハマりすぎて、大学で所属してた文芸サークルの合評では毎回のように「お前の書く小説はどれも舞城の劣化コピーだ」って毎作毎作指摘される始末でした……😢

(ちなみに自分が所属していた文芸サークル、どうやらまだ存続してるっぽいってこの前聞きました。恐ろしいことですね🥺)

菊地成孔

思春期だった真っ只中、眠れない日々を過ごしていたことがあります。何とか頑張って寝ようとしていたのに眠れない。そんな時に、たまたまラジオをつけたところ、不思議な番組に出会ったのです。

その番組、頭の良さそうな男性二人が、ゲラゲラ笑いながらものすごく楽しそうにジャズについて話していました。でも当時の自分には何一つとして、固有名詞は分からず、出てくる音楽用語も何一つとして分からない。

何も分からないのに、ゲラゲラ笑いながら、ふざけながら楽しそうに音楽について話しているものだから、それがとても心地よく、そして、ものすごく興味を惹かれ、その日はすっと眠りにつくことができました。

当時は今ほどインターネットは身近ではありませんでしたから、たまたまつけたラジオ番組なんて、番組名も出演者の名前も放送局すら突き止められませんでした。新聞のラテ欄の番組表なんて文字数はものすごく少ないですし。

なので、何だったのか分からないけれど、とにかくとんでもなく変てこで面白げな番組を聞いたという強烈な思い出だけが心に残ったのです。

●【閑話休題】自分が大学生だった時の思い出話~学科の名物先生について

それから何年か経ち、大学生になりました。その頃には文章がすっかり大好きになっていたので、文芸サークルに入部し、さらに色々な文芸の授業に潜るようになり、主専攻より熱心に授業を聞いてました。(その後、最終的には大学院の文芸創作のゼミにまで潜るようになっちゃいました😝 専攻は全然違うのに……)

大学には名物先生というのがいますよね。授業の話が面白くて、いつも聴講生で溢れてて、カリスマ性もあって多くの生徒が慕って熱心なファンがたくさんいる、そんな大人気の先生。

もちろん自分の通っていた大学にもいました、そんな名物先生。

その名物先生は、文学の先生で、アニメ・マンガなどのサブカルチャー研究を得意としながらも、純文学や海外文学への造詣が深い教授でした。

さらに文化祭になると女装して学科棟を歩いてるようなすごく自由な先生でした。

今でこそメジャーになりましたが、LGBTにも理解のある先生で、先生の論考や作品にもたびたびトランスジェンダーが取り上げられています。

そんな先生の講義は、その時々に流行っているアニメや漫画などのカルチャー関連のホットトピックを取り上げながら、その物語の構造やなぜ流行したか分析してくれる授業でした。

その授業は大変な人気で、他の学科の生徒たちが大挙して押し寄せて超満員になって立ち見すら出てしまうほどの人気ぶりでした。(今だったら『さよなら絵梨』とか『タコピーの原罪』とかそういうのを分析して沸かせてるんだろうな、って思います)

ほんとに楽しかったな~。その先生のことが好きすぎて、先生がいる飲み会に突撃していって、お話させてもらったこともあります。(あの頃は若くて図々しくてほんとにご迷惑おかけした~~~💦って未だに布団の中で赤面することが時々あります///)

そんな先生が取り上げていたのが菊地成孔のSPANK HAPPYでした。

●博覧強記で衒学的な文章に酔い痴れる

菊地成孔。本業はジャズミュージシャンですが、文筆家としても知られており、たくさんの本を出版しています。

また、彼はたくさんのバンドやプロジェクトを同時並行でやっていて膨大な仕事量があります。そんな彼がやっているグループの一つが『SPANK HAPPY』でした。

で、大学の先生が授業内で取り上げたのが冒頭に引用した《普通の恋》という曲です。リストカット癖のある男の子と、メンヘラ女子が、どこにでもあるありふれたコンビニで出会って、どこにでもあるありふれた、でも決して人類がやめようとしない普通の恋をするという曲です。

この曲を聞いた時、何か聞き覚えのある声だな、と妙に頭にひっかかったのです。

検索して辿り着いたのが、彼が当時やっていた、そして、眠れなかった自分を癒し、眠りに誘ったラジオ番組だったのです。それからというもの、彼の著作や出演を頻繁にチェックし、ニコニコ動画に非合法にアップされている録音をごにょごにょして、iPodに入れてはそれを毎晩聞きながら眠りにつきました。

彼が東京大学教養学部でおこなわれたジャズ史の講義録。

自分のジャズの知識は菊地成孔のこの講義録とそれに続く一連の著作によるものが主になっています。

また初期のエッセイ集である『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』。

博覧強記の雑学や音楽理論を、衒学的に書きつけるその語りぶり。読後は陶酔感を覚えるほど、うっとりさせられちゃいます。彼の文章を読んでるだけで恋に落ちてしまいそうなほど、色気たっぷりなんです。もうずっと彼の文章をいくらでも読んでいたいくらいです。

それから2011年の震災直後から始まったラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』は、死にたがりだった頃の自分を支え続けてくれた番組でもありました。彼の声はまるでウイスキーのようにとろっとしていてカラダが火照ってくる感じがするし、すごく安心するのです。

膨大な知識が頭にたくさんあって、衒学的に、情熱的にそれらのエピソードを披露して、ときに皮肉っぽくて。大人っぽいのに少年ぽさもあって。意地悪なのに優しくて。ジェントルだし、超エロい。こんな最高の男は他にどこにいるでしょう。

実はここだけの話ですが、『菊地成孔に顔向けできるかどうか』が自分の生き方を決める時の基準の一つになってます。みんなが信じている社会常識よりも、彼にがっかりされないように生きることの方が自分にとって大事なのです。

物語との偶然の出会いが自分を救ってきた

こうやって書いてみると、金原ひとみも、舞城王太郎も、菊地成孔も、偶然の出会いでした。何か一つ違ったら、きっと、彼ら彼女らのことを知らないまま、もしくは一生嫌いなまま生きることになったでしょう。

でも、出会って良かった、と思います。

とは言え、「読んだ方がいいよ」とは軽々しくは言えません。楽しい本は他にもたくさんありますし、娯楽は無尽蔵にいくらでもすぐに手に入りますから。(あと3冊中2冊は読後に気分が悪くなってますからね🤣そんなのを薦めてどうする)

でもまあ、彼らの本に救われたのも事実。

ではでは長々とここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。(本当はこれでも全然話したりないです。だいぶばっさり文章を削ってなんとか収めました🥺)

また、次回の投稿でお会いしましょう。

<了>

その他エッセイはこちらにまとまってます🤗

この記事が参加している募集

推薦図書

読書感想文

最後まで読んでくださってありがとうございます🥺