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『荒地』を愛でる

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『荒地』をただただ愛でる。 引用先が途中で終わってるからその続きをやるかは考えどころ。
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『荒地』を愛でる「火の説教」 17

 この二行は全て性描写である。しかも、強引なものだ。
 時代というのは、ここまで残酷なものなのだと思う。
 今、このような表現は出来ない。し、するべきでない。
 いくら露悪的でも一線を越えているように思う。
 かの有名な『荒地』も時代を越えない。
 ユリシーズだって今、ブルームは、所謂、売春街を歩いている。
 何か、心が苦しい。
 私だって男(性も自認も)だから性的なものは求めるものだが、
 詩(

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『荒地』を愛でる「火の説教」 16

 成金の無作法を思わせる。
 缶詰の女の雇い主なのかもしれない。
 不動産屋だからブルジョアだ。
 その辺も批判しているのか?
 もっと単純に成金の無理やりの抱擁の嫌味な様を描いているのか?
 前回からのもの参照して、皆さんの読みに任せたい。

『荒地』を愛でる「火の説教」 15

西脇訳は、原文とは違い、文をまたがって、意訳しているのだろう。
昨日は知らなかった今日の文をみるとやっと意味がつながる。
ただ行数がずれ始めたが、原文と同じ量で載せていく。
あの缶詰の女性は食事を終えたらしい。
数行前だが、イメージが続いている。

『荒地』を愛でる「火の説教」 14

 西脇訳は、もはや、彼の詩になっていないだろうか?
 原文と滝沢訳のように直訳を照らしてやっと分かる。
 面疔は、たぶん、差別用語だと思う。
 だから、ニキビの赤ら顔の方が、いいだろう。
 下に対する差別と上に対する憎しみを感じさせる文章だと思う。
 エリオットもまた露悪的なことをするのではないか?
 たぶん、関係代名詞の取り扱いで西脇訳と滝沢訳が変わってくるのだろう。

『荒地』を愛でる「火の説教」 13

皺は、この前の衣類から老人の皺を引き出す。
二行目の違いは難しい。
やはり滝沢訳の方があっているのかもしれないが、
英語のニュアンスが分からない。
予言というのは、聖書的な預言ではなく
いわゆる未来予測の予言である。

『荒地』を愛でる「火の説教」 11

翻訳は、文芸だ。
西脇訳も滝沢訳も原文との綱引きしている。
幻想的だからなのだろうが、原文と訳文二つと辞書を引いてもよく分からない。

解説はできないが、参考にして下さい!

『荒地』を愛でる「火の説教」 10

もう翻訳は、文芸だなと思う。
例のように滝沢訳は、語順も単語もそのまま置き換えている。
しかし、西脇訳は、語順も単語の解釈も違う。
それは、たぶん関係代名詞の捉え方の違いなのだろう。

すみれ色の時刻。
という幻想的な世界観を提示している。
「人間の発動機」という西脇訳は不可思議だ。
「男と女の二つの世界の間に生きている」とはどういうことだろう。
確かに、男性のような老婆を見かけるが、きっとそれを

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『荒地』を愛でる「火の説教」 9

 T.Sエリオットは、『荒地』を第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発の前、すなわち、その間に発表している。
 彼らにとって第一次世界大戦は、不毛な戦いであったことの反省に満ちていただろう。
 『荒地』は、それを負って書かれているのだろう。

 しかし、彼らの時代には、反ユダヤ的なものは残っている、と読んだことがある。
 ヒトラーのように、優生学という似非科学を用いて、反ユダヤ主義を駆り立てる

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『荒地』を愛でる「火の説教」 8

 やはり翻訳次第で見え方が変わる。
 空虚の都市と非現実のシティーだったら前者だろう。
 霧の中と霧の下であっても前者だろう。
 しかし、後半の語順は後者だと思う。

 エウゲニデスは、エウゲニックスに優生学という意味があるからきっとそういうことだろう。
 難しい単語ばかりだが、言っていることはそれほど幻想的ではない。

『荒地』を愛でる「火の説教」 7

これはうろ覚えだから気になったら調べて欲しいが、
性行為の音を表現されているらしい。
西脇訳と滝沢訳は、ここでも違ってくる。
音の違いこそ本性に訴えてくるものが変わると思う。
性行為を念頭にするとトウィッよりも
チョッの方が生々しい。
強いらぅたは、より直訳にしようとする努力だ。
西脇訳は、意訳中の意訳だ。
きっと性描写のスラングがあるのかもしれない。
辞書以上の経験を下敷きにしているのだろう。

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『荒地』を愛でる「火の説教」 6

 今回の箇所は、注が付いている。
 しかし、その参照先に不案内である。
 専門家はそれをくみとるのだろうが、そこまでやる気はない。
 最後の文はフランス語。それも不案内。
 
 二人の訳がかなり違っている。
 やはり、滝沢訳と原文を見ると直訳の良さがあるが
 原文のニュアンスは、西脇訳なのかもしれない。
 関係代名詞をどう捉えるかなんだと思うが
 英語も不案内。

 ちょっとづつ挙げていくので参考

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『荒地』を愛でる「火の説教」 5

兄の王は、ジョイスとすれば
父の王とは、パウンドかもしれない。
あくまで私の場合は超読だから話し半分にして欲しいが
同年に「ユリシリーズ」は出ているしエリオットはそれを称賛している。
「ユリシリーズ」は「オデュセイア」が下敷きになっている。
また、パウンドも「キャントーズ」もあるから、超読をしてしまう。

骨なんかは、エゼキエル書の預言もある。
つまり、彼らは死んだかもしれないが、復活するのだ。

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『荒地』を愛でる「火の説教」 4

この中で「釣り」というのは、また後で出てくる。
鼠の描写はやはり西脇訳の方が気味が悪い。
しかし、後半は、解釈が違ってくる。
「gashouse」は、ガス工場とか酒場と辞書では出てくる。
ガスタンクはさすがに意訳過ぎるのかも知れない。
たぶん、太陽を釣り上げたくらいのイメージがあるのかもしれない。
また、文の切れ目も二つの訳で変わってくる。

『荒地』を愛でる「火の説教」 3

 (私のブログに求められるのは、私情ではなく、詩情なのかもしれない)

 西脇順三郎訳と滝沢博訳。
 前者が、意訳的だとすれば、後者が、直訳的だ。
 私は、聖書の民なので、できれば、直訳の方がいいと思う者である。
 しかし、詩文に関しては、そうもいかない。
 彼らの訳した詩文を見て、やはり、西脇順三郎訳の方がいいとも思ってしまう。
 私たちは、矛盾する人間だ。
 特に、「Sweet Thames」

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