ソ連のMSXとPCの歴史
ソ連でMSXが利用されていたことは有名なお話しですよね。しかしソ連MSX物語はあくまで父の個人贈与の話であって、公的な輸出用と言うことではありません。
今回はソ連内でのMSXが流通した経緯やパソコン事情をまとめてみようと思います。
ソ連にMSXが公式に輸出されたのは1985年のことです。ソ連の中学校の教育用PCを、海外から導入することが決定したことが切っ掛けでした。これにはゴルバチョフのペレストロイカ政策が関与していて、同時にココム(対共産圏輸出統制)が若干緩和されたことが大きかったようです。とはいえやはり軍事転用の可能性がある16bitパソコンは禁止されており、国際共通規格である8bit機MSXが注目されたのでした。
この際には日本のMSXメーカー12社と8bitパソコンを製造している世界中の15社、合計27社との競合の末にヤマハが選定されます。その理由はヤマハが音楽面で教育のノウハウを持っていたことや、海外への輸出の実績が評価されたのだそうです。
この商談は現在でも在日ロシア連邦通商代表部として存在するソ連邦通商代表部が行っていて、当時を知る父の友人に聞いたところ
「ヤマハの誠実な対応とロシア語のキーボード・マニュアルの完成度が決め手になった。」
と言うことでした。またヤマハは東欧向けの貿易商社と提携していたことが強みでした。
ソ連の教育用MSXの最大の特徴は教育用ネットワークシステム「YAMAHA KUVT」の採用で、これにはT&Eの内藤時浩先生も関わる可能性があったと言う裏話があります。ココム問題で頓挫してしまったそうですが、この設計すら海外に依頼するほどソ連のパソコン事情は脆弱だったのでした。
下のリンクに父が翻訳してくれた、ソ連に輸出したMSXの実数についてのソ連政府の公式記録があります。
MSXは教育現場では好評だったようで、生徒たちへの人気も抜群でした。ソ連の子供用の教育映画にも度々MSXは登場し、その様子が伺うことができます。
題名は「マリフキンと仲間たち」何と1986年にウクライナのオデッサで作られた映画なのだそうです。いきなりコナミのわんぱくアスレチックが登場しています。
「ダバイダバイ行け行け!」という子供たちの声が可愛いですね。ヤマハから輸出されたYAMAHA KUVTや専用フロッピーディスクが登場しています。
このように当時のソ連国民が触れることのできたコンピュータは学校にある教育用パソコンに限られており、「YAMAHA」はパソコンの代名詞にまでなったと言われています。
ソ連で使用された最も有名なMSXは、軌道宇宙船ミールでソニー製MSXの最上位機種「HitBit PRO」ことSONY HB-G900APが使用されたケースでしょう。
ソ連の工業界で宇宙産業は一番の花形でしたから、それだけMSXがソ連国内で評価されていたことの証明と言えます。
MSXの高い完成度、拡張性や互換性は西側の情報や製品が入手しずらい共産圏では有利に働きました。
ではソ連で多くの人々がMSXを使用していたかと言うと、決してそういう訳ではありません。ソ連のパソコンユーザーと言えばテトリスの作者であるアレクセイ・パジトノフ氏が有名ですが、ソ連崩壊直前の1990年末にログイン誌によるインタビューで
「ソ連のパソコンはとんでもなく高価なので一般人にはとても買うことができない。私の体感ではモスクワのパソコンユーザーは100名から多くて200人と言ったところ。」
と回答しています。モスクワ市の1989年の人口が897万人(同年の東京人口が1192万人、大阪府 873万人)ですから、大阪にパソコンユーザーが100人ちょっとしかいなかったとイメージすれば解りやすいでしょうか。
同じくログイン91年2月号でのモスクワ市コンピュータ教育センター校長のインタビュー記事。ソ連崩壊直前で財政難が顕著化しているのが伝わってきます。
学校内ではIBM-PCとMSX2を使用していますが、5年落ちのヤマハMSXが現役という状態。「ソ連製のPCは論外」との本音が漏れてますね。しかし校長先生のMSX評は高評価です。
「良い選択でした」「グラフィックもしっかりDOSの機能も十分」「64KBでも切り詰めれば何とかなる」
とはMSXユーザーには涙モノです。
このように公的に輸出されていたMSXは教育機関に使用が限られていました。共産圏で使用されていた個人のホビーパソコンは当時世界最大のホビーパソコンだったアップルⅡや、欧州で安価で人気だったZX Spectrumが主流だったようです。
これらはペレストロイカ政策にて1988年以後正規品が輸入されていますが、それ以前から個人輸入や海賊版が大量に流入していました。
当時の資料を追ってみるとソ連政府に納品されたMSXは1985年初期にYIS-503及びYIS-805が4200台、トータルでは約7000台とされています。その後商業的に輸入が解禁された後の物を含めても最終的にソ連国内で流通したMSXは1万台前後であったと推測できます。
この数は1989年時点でのソビエト連邦の人口、2億8670万人(当時世界第3位の人口数)に比べてあまりにも少ない数字です。
よくPCの生産台数が話題にされますが、僕は「熱心にそのPCを使用したか」の方がより重要だと思います。パソコンと言う存在自体皆無な状態から、ソ連のMSXユーザーは高度なプログラムを開発するまでに至りました。
恐らくソ連でのPC技術者の多くがMSXの影響を多分に受けたのではないか、僕はそう強く感じるのです。
実体験として父は1971年から提携が終了するソ連崩壊直前の1991年まで、相当な期間ソ連に滞在しています。しかし結局最後までソ連国内でパソコンと言うものを見たことがなかったとのことでした。父の元職場の方々にもお聞きしましたが同意見と言うことです。
当時のソ連のコンピューターと言えば汎用機、基業務用の大型コンピュータのことでした。特に構成国のアゼルバイジャンやウクライナ、リトアニアには旧式のものしか納入されませんでした。
奇しくも僕の「ソ連MSX物語」はMSXが公的に輸入された1985年から始まっています。これは全くの偶然なのですが、父からMSXを個人的に贈与された技術者達は
「パソコンなど噂には聞いていたが、本当に実在するとは信じられない」
「大学の研究室で共同で使用されている高級計算機を個人所有できるとは!」
と大いに感激したのだそうです。ソ連の大学機関は共産党エリートだけが独占する天上界でしたから、たたき上げの技術者にとってみれば夢のような出来事だったのでしょう。
冷戦時のソ連民衆を「冷たく停滞した、あきらめの時代だった」と父は回想しています。その中でMSXに限りない未来の可能性を見出した、ソ連技術者達の熱いドラマを僕は皆さんに伝えられたらと思っています。
以下は僕の調べたソ連のMSXについてのコラムです。よろしければご覧になってください。父とソ連技術者がMSXを通じて交流した、ソ連MSX物語も連載中です。