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ソ連MSX物語①ソ連に渡ったMSXの数奇な運命

僕がまだナイコン少年だった1985年の夏、帰国した父が突如「MSXを買いに行こう」と言い出しました。大しゃしぎする僕に「私の仕事用だ」とのことでガッカリしながら秋葉原へ向かう場面からこの物語は始まります。
父はソビエト連邦へのプラント(工場)輸出の専門家でした。機械技術者としてロシア語が堪能だったからです。

ソ連の鉄工所『共産党は我々の時代の精神、名誉、そして良心である』レーニンの言葉
担当した圧縮機工場の設計図。三百種千台の工作機械が稼働する巨大な物です。

父は1971年よりソ連アゼルバイジャンに建設された圧縮機工場の品質管理責任者に就任します。立ち上げ時にはそのデータ管理は手動で行われていました。80年代に入るとデータ管理はパソコンの仕事に移っていきます。巨大なデーターをコンパクトに集計するパソコンの効果は絶大でした。

87年父の会社の最新式のPC9801UX。日本のビジネス機は16bit機が標準でした。

85年当時日本ではPC9801系が産業用PCとして活用されていましたが、ココム規制(対共産圏輸出統制)により16bitコンピューターはソ連への輸出が厳しく制限されていました。
東芝機械ココム違反事件が有名ですが、軍事転用の恐れのある工業製品は共産圏に持ち込むこと自体が違法だったのです。
そのためソ連の工場では8bit機であるPC-8801mk2が利用されたのですが、予算や手続きの煩雑さもあって各工場に僅か1台の割り当てでした。父は日本電気精器と言う日電系の企業に勤めながら、NECは非協力的で苦労したと当時を振り返っています。何しろNECは殆ど値引きせず定価近くでの納品を通告して来たとか。NECパソコンの全盛期らしいエピソードです。

父が当初検討していたPC88mkⅡの広告。定価27万モニタ約15万。予算オーバーです💦

そこでソ連技術者の教育用のパソコンとしてMSXの出番となったわけです。その頃ナイコン少年だった僕は毎月MSXマガジンの広告欄を見ながら溜息を付いていたのですが、それを見た父がMSXを選択したことは全くの偶然でした。もし僕が読んでいたのがOh!FMであったなら、この物語はソ連FM7物語になっていたかもしれません。

僕は85年からMSXマガジンを愛読していました。

僕達が向かったのは秋葉原の電気街を抜けた明治大学前にあるイシバシ楽器店。機種は当時の新型MSX1ヤマハのCX11や型落ちのCX5の2台を選択しました。値段が安いこともありましたが、一番の理由は領収書を「楽器」に出分類出来たこと。ソ連に持ち込む際にパソコンとして申請すると手続きが面倒で、音楽用途に偽装するためでした。

83年の石橋楽器店広告。音楽用途としてのPC販売の草分けでした


店内ではパソコンやMIDIなどが多数展示されていました

帰宅すると父は早速MSXの箱を開け始めました。
「もしかして1台は僕にくれるの!」
その期待はあっさりと打ち砕かれます。新品であると転売や賄賂など、あらぬ疑いをかけられる可能性があるからでした。「1度電源を入れ父の私物として持ち込み現地で贈与する」という徹底ぶりだったのです。
「1日だけなら使っていいぞ」
「ケチ!」
父の残酷な宣告にむくれながらも「こんにちはマイコン」のプログラムを入力した、CX11の黒光りする美しいボディは未だに僕の記憶に残っています。


僕のバイブル「こんにちはマイコン」MSX対応版です。


84年のヤマハMSXの広告。音楽用途パソコンの草分けでした。
ソ連国内にMSXを持ち込む際、これらの広告を「楽器である証拠」として提示

こうして合計十数台のMSXが個人贈与と言う形でソ連に送られました。余談ですがソ連は日本のビデオ・フォーマットであるNTSCではなく、フランスのSECAM方式を採用していたため、会社で余っていたTVを送ったそうです。TVはココム規制対象外でした。

父はあくまで業務の一環としての行為だったのですが、このMSXと言うパソコンは予想以上にソ連の技術者たちの心をつかむことになるのです。
現在50歳である僕以上の世代の方はご理解頂けると思うのですが、当時の共産圏の親玉であるソ連は謎に包まれた仮想敵国であり、米国に匹敵する軍事大国でもありました。
しかしソ連はコンピューターの発達が著しく遅れており、パソコンの存在を知る国民も僅かであるのが実態だったのです。

ソ連の誇る巨大石油コンビナート。超大国だったが技術に偏重があったと父は語ります

ナイコン少年がパソコンに魅了されたのと同じ、いやそれ以上にソ連の技術者がMSXを手に入れた喜びは大きかったのでした。いつしかMSXに熱中するソ連技術者達と父には国籍や人種を超えた共感が生まれ、多くのドラマを生むことになります。
僕は歴史に埋もれてしまった冷戦時代の技術者の生き様を、是非皆様に知って貰いたいと筆を取った次第なのです。

冷戦真っ只中の71年に初訪ソした時の写真。仮想敵国としての緊張感が漲っていた

父の業務はロシア本国より、むしろソ連内の構成国であるアゼルバイジャン・ウクライナ・リトアニアなどが中心でした。特に長期滞在したアゼルバイジャンを舞台にこの物語は進んでいきます。そして人類の歴史の転換点ともなった、ソビエト連邦の崩壊までを父の視点から綴っていければと思っています。

ソ連各地の産業発展に寄与してきたことは父の誇りでした。しかし多くの知人友人のいるロシアの不毛な戦争に対しては
「本当に悲しく、怒りを禁じえない。」
父は若き日の思い出を語りながら、そう寂しそうに呟くのでした。

同じ技術者として苦楽を分かち合うにつれ交流を深めることになります。
その一 助としてMSXと言う存在があったのでした。

タイトルの写真は赴任先のソ連アゼルバイジャン・スムガイト市。1989年の革命記念日祝賀会に父が招待された物です。新たに書記長に就任したゴルバチョフ氏の肖像画が印象的です。


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