ソ連MSX物語②MSXに未来の可能性を見出した
父はプラント輸出の専門家でした。これは工場を丸ごと輸出するもので、三百種千台の工作機械・ノウハウ・整備・人員教育・アフターケアなどを全てを含めた巨大なプロジェクトです。
父の担当したアゼルバイジャン・バクー工場(正確にはその隣のスムガイト市)は千人規模と言う巨大な物で、これだけのプラント輸出が出来る企業は世界でも限られていました。相手がソ連なら尚更です。
工場の最終的な能力は製造品の品質検査に集約されます。1970年の立ち上げ時にはそのデータ管理を手動で行っていました。
80年代に入るとデータ管理はPCの仕事に移っていきます。巨大なデーターをコンパクトに集計するPCの効果は絶大でした。日本は16bit機であるPC9801系列が使用されていましたが、ココム規制(対共産圏輸出統制)により16bit機の輸出は厳しく制限されていました。その為8bit機のPC8801mkⅡが1984年にソ連工場に導入されたのは前回お話した通りです。しかしこの巨大工場に僅か1台の割り当てだったのでした。
まずパソコンと言う物をはじめて触れたソ連の技術者は、その実態が理解できなかったようです。父は「電子タイプライターだ」と説明したようですが、数学を得意とする何人かが「これは高度な計算機なのでは?」と言うことに気が付きます。
ソ連ではコンピューターを使用できるのは軍関係者や宇宙産業などごく限られた特権階級の人間だけでした。特に国立大学などの研究機関にPCは集中配備されていたそうですが、それは工場に勤務する叩き上げの技術者にとって「別世界」と言って良かったのです。
ソ連で大学に進学するためにはコムソモールという共産主義青年団に入り、奉仕活動などで実績を上げる必要がありました。14~28歳の男女で組織されていましたが、共産主義とソ連への忠誠が重要視され、奉仕活動にはスパイ活動や密告も含まれていたのです。
例えばテトリスの作者アレクセイ・パジトノフ氏もそんな一人です。彼はソビエト連邦・科学アカデミーのコンピュータ部門で勤務していた際にテトリスを開発しました。 使用したのはエレクトロニカ60で、これはテキストのみのパソコンです。完成はこの物語と丁度同時期の1984年のことでした。
ソ連は教育に力を入れていたため、技術者の水準は高かったと父は回想しています。特に父の担当した工場には工業高校の成績優秀者が抜擢されていました。しかし「働こうが努力しようが賃金は同じ」というソ連共産主義の悪癖によってその勤務態度は最悪で、典型的な日本型企業戦士の父は大いに憤慨していました。
そんな彼らがたった1台のPC8801mkⅡに興味を持ったことを父は不思議そうに眺めていました。「残業なんてもってのほか」と嘯く連中が、勤務時間が終わった後もパソコンについて質問攻めすることに閉口していたと言います。何しろソ連のホテルでは時間を過ぎると食いっぱぐれてしまうのですから!
冷戦時のソ連民衆を「冷たく停滞した、あきらめの時代だった」と父は回想しています。そんな彼らを内心軽蔑していた父でしたが、彼らの熱意に対しては一筋の希望を見出します。
1985年の夏に教育用のPCとして、父が個人贈与と言う形で合計6台のMSXをソ連技術者に贈った経緯は前回紹介しました。その際MSXを手に入れた技術者の感動は父を驚かせました。
「噂には聞いていたが、本当に実在するとは信じられない」
「大学の研究室で共同で使用されている高級計算機を個人所有できるとは!」
それは凍てついた彼らの心に、好奇心という炎がともった瞬間でした。僕は38年前に初めてMSXを所有した感動を今でも忘れることが出来ません。しかし彼らの喜びはそれ以上の物があったのではないでしょうか。
旧ソ連の片田舎で「MSXに限りない未来の可能性を見出した」男たちのドラマが始まろうとしていたのでした。
タイトル写真は地下宮殿と呼ばれたバクーの地下鉄。防空壕としての役割も担うため、地下深く建設されました。
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